辞書を引けば正解はすぐに見つかる。 “Fire-Dog” とは 「消防犬」 ではなく、 暖炉の中で細長い薪を載せる台のことだ。 試しに画像検索してみてほしい。 “firedog” という単数形だと、 あの 『101匹わんちゃん』 でおなじみのダルメシアンという犬種が多数表示されるだろう。 ただ、 検索ワードを “firedogs” と複数形にしてみれば、 おそらく多くの人には見慣れない器具というか金具のようなものが表示されるはずだ。
暖炉で薪を燃やすとき、 空気が供給されやすくするため、 燃えている薪の下の方に空洞があるとよい。 “fire-dogs” とは二匹の並んだ犬をあしらった薪載せ台のことで、 日本人にイメージしやすい例でいえば、 神社の入り口の両脇にでんと構えた (二匹で一対の) 狛犬のようなものだろうか。 だからこそ、 この箇所では “Fire-Dogs” が二人で一組の双子に対しての呼びかけとなっている。 もちろん “barking” とあるように文字通りの吠える犬をイメージさせる表現ではあるが、 やはり 「消防犬」 では二つ一組という含意が全くない。
つまり、 火を消すために街を駆けていく 「消防犬」 どころか、 この “Fire-Dogs” は、 炎を燃やしておくための犬、 いわば自ら炎を身にまとう二匹の番犬なのだ。 外では雪の星が輝き、 中では炎の犬たちが吠える、 そんな奇妙な空間で、 ピンチョン 『メイスン&ディクスン』 は語られている。 コナン・ドイル 『バスカヴィル家の犬』 の、 闇のなかに怪しく輝く魔犬みたいな話になってきたが、 実は最近 『バスカヴィル家の犬』 に関してこの薪載せ台 (fire-dogs もしくは iron-dogs) の訳し方を解説・分析した記事を見つけた ( 「注意:薪は暖炉の前に置かないでください」 https://freeenglish.jp/iron-dogs.html)。 当初の予定を変更してこんなことを書いているのも、 こういう奇遇な出会いのためだ。
ピンチョンに関する話が長くなりすぎたので、 肝心のデヴィッド・フォスター・ウォレス 『インフィニット・ジェスト』 に話を移そう。 前回の翻訳日誌で紹介した男ドン・ゲイトリーは、 現在、 社会復帰施設エネットハウス (略称) で働いている。 ここには薬物の問題を抱えた人々が入居していて、 この入居者の内の一人が今回紹介する男ランディ・レンツだ。 レンツは元々コカインの売人だったのだが、 ある囮捜査での行き違いにより、 現在は警察からも犯罪組織からも追われている。 はっきり言って、 ゲイトリーとは違い私が多分一番好きになれない登場人物がこのランディ・レンツだ。
理由はものすごく単純で、 このレンツという男、 ごちゃごちゃ色々言ってはいるけど早い話が、 ストレス解消のために犬や猫を殺して回っているからだ。 しかもその殺し方がひどい。 毒入りの餌を食べさせたり、 犬はナイフで喉を切り裂いたり、 猫は厚手のゴミ袋に入れて窒息させたり、 ゴミ袋にいれたまま電柱に力いっぱいぶつけたり、 挙句の果てには灯油をかけて火だるまにする。 天罰でも当たればいいのに、 ていうか、 もういっそのこと天誅を下してやりたいなこの野郎と思って訳していたら、 こんな場面があった。
しかしある水曜の晩、 火のついた猫が走り出し (火のついた猫ならもちろんそうだろうが、 死に物狂いで走った)、 しかし見たところレンツを追いかけるようにして走ってくると、 レンツが跳び越えたのと同じ柵を跳び越えて彼の後ろにぴったりと着いてきて、 注意を引かずにはいない騒音が有難いものではなかっただけでなく、 通り過ぎた家々からは他人の視線を怖れるレンツの姿がありありと浮かび上がって見えてしまい、 その後でようやくそいつは意を決してぱたりと地に伏し、 そこで息を引き取り、 火をくすぶらせていた (⋯)。
(Infinite Jest, 544)
さて、 デラウェアの雪原を駆ける炎の犬たち、 バスカヴィルの野に出没する魔犬に続いて、 文字通り燃え盛る猫まで出てきた。 探偵小説的な文脈を無理に作りたいわけでもないが、 この燃える猫が E. A. ポー「黒猫」 のようにレンツに復讐してくれればいいと私は思っていた。
すると、 復讐とは言わないまでも、 意外な報いがやって来る。 レンツを含むエネットハウスの入居者たちは、 アルコール中毒者や薬物中毒者たちの集まる会合に毎週参加することを義務付けられている。 会合の後は基本的には真っすぐ帰らないと、 こっそりまた酒やクスリに手を出しているのかと疑われるので、 エネットハウスには門限もある。 レンツの場合、 車を持っているのにわざわざ会合の会場からエネットハウスまで歩いて帰ることで一人きりの時間を作って小動物殺しにいそしんでいたのだが、 ある日、 一緒に帰ってもいいか、 とやはり入居者のブルース・グリーンという若い男が言う。 そしてグリーンは、 「テリア犬みたいに (like a terrier) 会合から会合へ、 そして帰宅するにも」 レンツについて来るようになった。 犬や猫が殺されている文脈において、 誰かを犬に喩えるこういう言葉遣いが無意味であるはずはない。 こうしてレンツは一人でいる時間が無くなり、 犬や猫に手出しできなくなってしまう。
だが、 レンツを襲う感情は、 邪魔されたことによる怒りや苛立ちではない。 もう一度言っておくが、 このレンツはとにかく、 普通の意味では全く好感など持てない男だ。 自分だって大して強くも賢くもないだろうに、 「馬鹿め」 と人を見下す気持ちだけはやたらと強く、 どうせ少なくとも八割くらいは嘘に決まっている昔のケンカの武勇伝を嬉々として話したりする。 しかもコカインのせいで、 彼は自分の頭の中に浮かぶことを口に出さずにいられない。 そんなレンツのことを快く思う人間などエネットハウスにもいない。 ところが、 この無骨で口下手な男グリーンは、 とにかく物静かで、 レンツもそれが気に入る。
だが、 無口な人たちの中には、 共感してこっちの話に耳を傾けているのか、 それともレンツをまるでつけたり消したりできるラジオみたいにあしらって、 そいつはそいつ自身の考えの赴くままになりレンツの話などまるで聞いていないんじゃないか等々と思えてくる奴もいるが、 グリーンはそこまで無口で無反応というわけではない。 (⋯) 自分がレンツの話を聞いていると伝えるにあたりちょうどいいところでブルース・グリーンは低い声で賛成したり、 「マジかよ」 とか 「クソすげえな」 等々と言葉をさしはさむ。 レンツはそれがとても好きだ。
(Infinite Jest, 546)
こうして、 レンツはグリーンを簡単にあしらえなくなる。 グリーンにそばにいてほしいと思っているのは、 他でもないレンツ自身だからだ。 犬や猫を殺したいという気持ちも消えてはいないが、 今となっては、 レンツのグリーンに対する複雑な感情のためにそうそう不用意な物言いはできなくなっている。
そんなレンツの感情を、 (同性に対する) 恋愛感情として理解するのはちょっと単純すぎる。 私はむしろ、 自分の話を従順に聞いてくれる相手を前にしたとき、 人はどこかしら、 子供を育てる親のような立場に置かれるのではないかと考えている。 親と子の間には一方的な偏りがある。 しかし、 だからこそその偏りが逆転するというか、 強い側のはずの大人が弱くなってしまうことがある。 相手がこちらのなすがままであるため、 むしろこちらは極度に慎重かつ臆病にならざるを得ないということだ。 レンツが悩んでいるのも、 たまには一人で帰れよとグリーンに言ったりしたら、 グリーンはどう思うだろう? いや、 別にそんなの気にしやしないだろう? でも気にしたとしたら? もしあいつが俺に嫌われてるって思ったりしたら? ⋯⋯という堂々巡りに答えが出ないからだ。
そうこうするうちに、 強がっていたレンツの鎧が崩れはじめる。 レンツには色々と妙な執着があって、 やたらと細かく時間を知りたがるというのもその一つだ。 そのくせ自分では時計を持たず、 しょっちゅう他人に時間を聞いてばかりなのだから、 だからお前は嫌われるんだよ、 なんて思っていた私は、 以下の箇所を読んでなんだか反省してしまった。
計時器具類に対する自分の恐怖症的な怖れは養父に由来するもので、 アムトラック列車の車掌で根深い問題を抱えながらそれにケリをつけられなかったこの養父はレンツに毎日自分の懐中時計のねじを巻かせて鎖をセーム革で磨かせ、 毎晩自分の時計に表示されている時刻が秒単位で正確であるようにさせ、 正確でなければ、 薄くてとんでもなく重い、 コーヒーテーブルに置くくらいの大きさの業界誌 『トラック&フランジ』 を丸めてそれでチビのランディをぶちのめしたものだった、 と彼はグリーンに語る。
(Infinite Jest, 556)
鼻持ちならない気取り屋で猫殺しのクソヤローになる前、 何度も何度も殴られていたチビのランディを見てしまったら、 彼に対する私の印象も変わってしまう。 子供であること、 無垢 (innocent) であることとは、 無罪 (innocent) であるということだ。 だが罪はすっかり消えるわけでもない。 その子供がどうなろうとも、 その責任は、 その子の周りにいる大人である私たちにはね返ってくるということだ。
子供たちへの眼差し——どちらも犬好きに違いないトマス・ピンチョンとデヴィッド・フォスター・ウォレス (DFW) の最大の違いはそこにあるのではないか、 と私はいまぼんやり考えている。 かつては孤独に放浪する独身者たちを描いていたピンチョンが、 子供を持つ母親を主人公にした作品を書くまで、 50 年以上を要した。 DFW の人生は 50 年にも満たず、 何匹も犬は飼っていたようだが、 彼に子供はいなかった。 そのせいだろうか 『インフィニット・ジェスト』 で赤ん坊が描かれる時、 それは大抵、 どこか禍々しく、 グロテスクで、 『重力の虹』 までの時期のピンチョンを思わせる。
子供を持ってこそ一人前だとか、 そういう下らない人生論でオチをつけたいわけではない。 ただ、 あまりにも無力で、 自分が懸命に努力せねば崩れ去っていくどころか、 はじめからこの世に生み出されることすらないような大切なものを意識しないような人間を、 私が信用しないのも事実だ。 それはその人の子供かもしれない。 その人の作品かもしれない。 とりあえず、 私にとってそれは今のところ、 『インフィニット・ジェスト』 の邦訳ということになる。 難産になりそうだ。
第五回 了