柳楽 馨

デヴィッド・フォスター・ウォレス『インフィニット・ジェスト』翻訳日誌

連載第8回: 犬たち猫たち子供たち(後編)

書いた人: 柳楽 馨
2020.
12.11Fri

犬たち猫たち子供たち(後編)

承前

書を引けば正解はすぐに見つかる “Fire-Dog” とは消防犬ではなく暖炉の中で細長い薪を載せる台のことだ試しに画像検索してみてほしい “firedog” という単数形だとあの101匹わんちゃんでおなじみのダルメシアンという犬種が多数表示されるだろうただ検索ワードを “firedogs” と複数形にしてみればおそらく多くの人には見慣れない器具というか金具のようなものが表示されるはずだ

 暖炉で薪を燃やすとき空気が供給されやすくするため燃えている薪の下の方に空洞があるとよい “fire-dogs” とは二匹の並んだ犬をあしらった薪載せ台のことで日本人にイメージしやすい例でいえば神社の入り口の両脇にでんと構えた二匹で一対の狛犬のようなものだろうかだからこそこの箇所では “Fire-Dogs” が二人で一組の双子に対しての呼びかけとなっているもちろん “barking” とあるように文字通りの吠える犬をイメージさせる表現ではあるがやはり消防犬では二つ一組という含意が全くない

 つまり火を消すために街を駆けていく消防犬どころかこの “Fire-Dogs” は炎を燃やしておくための犬いわば自ら炎を身にまとう二匹の番犬なのだ外では雪の星が輝き中では炎の犬たちが吠えるそんな奇妙な空間でピンチョンメイスン&ディクスンは語られているコナン・ドイルバスカヴィル家の犬闇のなかに怪しく輝く魔犬みたいな話になってきたが実は最近バスカヴィル家の犬に関してこの薪載せ台fire-dogs もしくは iron-dogsの訳し方を解説・分析した記事を見つけた注意:薪は暖炉の前に置かないでくださいhttps://freeenglish.jp/iron-dogs.html)。 当初の予定を変更してこんなことを書いているのもこういう奇遇な出会いのためだ

 ピンチョンに関する話が長くなりすぎたので肝心のデヴィッド・フォスター・ウォレスインフィニット・ジェストに話を移そう前回の翻訳日誌で紹介した男ドン・ゲイトリーは現在社会復帰施設エネットハウス略称で働いているここには薬物の問題を抱えた人々が入居していてこの入居者の内の一人が今回紹介する男ランディ・レンツだレンツは元々コカインの売人だったのだがある囮捜査での行き違いにより現在は警察からも犯罪組織からも追われているはっきり言ってゲイトリーとは違い私が多分一番好きになれない登場人物がこのランディ・レンツだ

 理由はものすごく単純でこのレンツという男ごちゃごちゃ色々言ってはいるけど早い話がストレス解消のために犬や猫を殺して回っているからだしかもその殺し方がひどい毒入りの餌を食べさせたり犬はナイフで喉を切り裂いたり猫は厚手のゴミ袋に入れて窒息させたりゴミ袋にいれたまま電柱に力いっぱいぶつけたり挙句の果てには灯油をかけて火だるまにする天罰でも当たればいいのにていうかもういっそのこと天誅を下してやりたいなこの野郎と思って訳していたらこんな場面があった

しかしある水曜の晩火のついた猫が走り出し火のついた猫ならもちろんそうだろうが死に物狂いで走った)、 しかし見たところレンツを追いかけるようにして走ってくるとレンツが跳び越えたのと同じ柵を跳び越えて彼の後ろにぴったりと着いてきて注意を引かずにはいない騒音が有難いものではなかっただけでなく通り過ぎた家々からは他人の視線を怖れるレンツの姿がありありと浮かび上がって見えてしまいその後でようやくそいつは意を決してぱたりと地に伏しそこで息を引き取り火をくすぶらせていた)。

Infinite Jest, 544

 さてデラウェアの雪原を駆ける炎の犬たちバスカヴィルの野に出没する魔犬に続いて文字通り燃え盛る猫まで出てきた探偵小説的な文脈を無理に作りたいわけでもないがこの燃える猫が E. A. ポー黒猫のようにレンツに復讐してくれればいいと私は思っていた

 すると復讐とは言わないまでも意外な報いがやって来るレンツを含むエネットハウスの入居者たちはアルコール中毒者や薬物中毒者たちの集まる会合に毎週参加することを義務付けられている会合の後は基本的には真っすぐ帰らないとこっそりまた酒やクスリに手を出しているのかと疑われるのでエネットハウスには門限もあるレンツの場合車を持っているのにわざわざ会合の会場からエネットハウスまで歩いて帰ることで一人きりの時間を作って小動物殺しにいそしんでいたのだがある日一緒に帰ってもいいかとやはり入居者のブルース・グリーンという若い男が言うそしてグリーンは、 「テリア犬みたいにlike a terrier会合から会合へそして帰宅するにもレンツについて来るようになった犬や猫が殺されている文脈において誰かを犬に喩えるこういう言葉遣いが無意味であるはずはないこうしてレンツは一人でいる時間が無くなり犬や猫に手出しできなくなってしまう

 だがレンツを襲う感情は邪魔されたことによる怒りや苛立ちではないもう一度言っておくがこのレンツはとにかく普通の意味では全く好感など持てない男だ自分だって大して強くも賢くもないだろうに、 「馬鹿めと人を見下す気持ちだけはやたらと強くどうせ少なくとも八割くらいは嘘に決まっている昔のケンカの武勇伝を嬉々として話したりするしかもコカインのせいで彼は自分の頭の中に浮かぶことを口に出さずにいられないそんなレンツのことを快く思う人間などエネットハウスにもいないところがこの無骨で口下手な男グリーンはとにかく物静かでレンツもそれが気に入る

だが無口な人たちの中には共感してこっちの話に耳を傾けているのかそれともレンツをまるでつけたり消したりできるラジオみたいにあしらってそいつはそいつ自身の考えの赴くままになりレンツの話などまるで聞いていないんじゃないか等々と思えてくる奴もいるがグリーンはそこまで無口で無反応というわけではない。 (自分がレンツの話を聞いていると伝えるにあたりちょうどいいところでブルース・グリーンは低い声で賛成したり、 「マジかよとかクソすげえな等々と言葉をさしはさむレンツはそれがとても好きだ

Infinite Jest, 546

 こうしてレンツはグリーンを簡単にあしらえなくなるグリーンにそばにいてほしいと思っているのは他でもないレンツ自身だからだ犬や猫を殺したいという気持ちも消えてはいないが今となってはレンツのグリーンに対する複雑な感情のためにそうそう不用意な物言いはできなくなっている

 そんなレンツの感情を、 (同性に対する恋愛感情として理解するのはちょっと単純すぎる私はむしろ自分の話を従順に聞いてくれる相手を前にしたとき人はどこかしら子供を育てる親のような立場に置かれるのではないかと考えている親と子の間には一方的な偏りがあるしかしだからこそその偏りが逆転するというか強い側のはずの大人が弱くなってしまうことがある相手がこちらのなすがままであるためむしろこちらは極度に慎重かつ臆病にならざるを得ないということだレンツが悩んでいるのもたまには一人で帰れよとグリーンに言ったりしたらグリーンはどう思うだろう? いや別にそんなの気にしやしないだろう? でも気にしたとしたら? もしあいつが俺に嫌われてるって思ったりしたら? ⋯⋯という堂々巡りに答えが出ないからだ

 そうこうするうちに強がっていたレンツの鎧が崩れはじめるレンツには色々と妙な執着があってやたらと細かく時間を知りたがるというのもその一つだそのくせ自分では時計を持たずしょっちゅう他人に時間を聞いてばかりなのだからだからお前は嫌われるんだよなんて思っていた私は以下の箇所を読んでなんだか反省してしまった

計時器具類に対する自分の恐怖症的な怖れは養父に由来するものでアムトラック列車の車掌で根深い問題を抱えながらそれにケリをつけられなかったこの養父はレンツに毎日自分の懐中時計のねじを巻かせて鎖をセーム革で磨かせ毎晩自分の時計に表示されている時刻が秒単位で正確であるようにさせ正確でなければ薄くてとんでもなく重いコーヒーテーブルに置くくらいの大きさの業界誌トラック&フランジを丸めてそれでチビのランディをぶちのめしたものだったと彼はグリーンに語る

Infinite Jest, 556

 鼻持ちならない気取り屋で猫殺しのクソヤローになる前何度も何度も殴られていたチビのランディを見てしまったら彼に対する私の印象も変わってしまう子供であること無垢innocentであることとは無罪innocentであるということだだが罪はすっかり消えるわけでもないその子供がどうなろうともその責任はその子の周りにいる大人である私たちにはね返ってくるということだ

 子供たちへの眼差し——どちらも犬好きに違いないトマス・ピンチョンとデヴィッド・フォスター・ウォレスDFWの最大の違いはそこにあるのではないかと私はいまぼんやり考えているかつては孤独に放浪する独身者たちを描いていたピンチョンが子供を持つ母親を主人公にした作品を書くまで50年以上を要したDFW の人生は 50年にも満たず何匹も犬は飼っていたようだが彼に子供はいなかったそのせいだろうかインフィニット・ジェストで赤ん坊が描かれる時それは大抵どこか禍々しくグロテスクで、 『重力の虹までの時期のピンチョンを思わせる

 子供を持ってこそ一人前だとかそういう下らない人生論でオチをつけたいわけではないただあまりにも無力で自分が懸命に努力せねば崩れ去っていくどころかはじめからこの世に生み出されることすらないような大切なものを意識しないような人間を私が信用しないのも事実だそれはその人の子供かもしれないその人の作品かもしれないとりあえず私にとってそれは今のところ、 『インフィニット・ジェストの邦訳ということになる難産になりそうだ

第五回 了


英米文学を研究しているレッチリの大ファン。『ブリーディング・エッジ』の公式な翻訳の出版を心待ちにしている。下唇の左側に複数のピアスあり。(文責:編集部)
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