今回は、有名な翻訳者の「誤訳」を例に、小説の翻訳がどういう風に難しいのかを具体的に説明しよう。標的は、柴田元幸氏。トマス・ピンチョン『メイスン&ディクスン』(1996)の邦訳が柴田氏の単独訳で出版された時は私もとても嬉しかった。とはいえ柴田訳にもミスはある。他人のミスに対する私のこの敏感さが、少しでも自分自身の訳文のミスに気付くことに発揮されますようにと星にでも願いたい気分だ。
柴田氏の誤訳の前に、『メイスン&ディクスン』について簡単に触れておこう。1786年クリスマスの時期、デラウェア州の裕福な商人ルスパークの家には遠方からの親戚も集っている。子供たちの楽し気な雪合戦の様子が描かれるこの冒頭部は、ピンチョン作品にしては珍しいくらいに無垢で、ついつい「犬は喜び庭かけ回り……」なんて童謡が頭の中で流れ出す。「雪玉がすうっと弧を描いて飛び、納屋の壁に雪の星を鏤め、いとこ達の体も雪塗れ」。原文は “Snow-Balls have flown their Arcs, starr’ d the Sides of Outbuildings, as of Cousins” 。「星印(*)をつける」を意味する動詞 “star” をどう訳すのか難しいところだが、要するに雪玉がぶつかり砕けて、夜空の星のようになったということだろう。作品を通じて「星」が重要な要素なので、これは良い訳だ。雪の星、というのがとても美しい。
作品の主人公は、天文学者チャールズ・メイスンと、彼の相棒の測量士ジェレマイア・ディクスン。二人は実在の人物で、物語の始まりの 1786年には既に死亡している。二人はある測量作業のため、まだアメリカ合衆国ですらなかったころのアメリカに渡る。それに同行したとされる架空の牧師ウィックス・チェリコーク牧師が、ルスパーク家の主とは義理の兄弟にあたり、クリスマスの時期なのでルスパーク家に滞在中。年末年始、子供たちに何か面白い話でも聞かせてやってくれるなら、客人としてもてなすのもやぶさかでないというわけで、ルスパーク家の人々を相手にメイスンとディクスンの珍道中の物語が幕を開ける。
と、こういった設定は昔の小説にはありがちだった。事件の関係者の手記がたまたま見つかったとか、旅先で出会った人が怖ろしい事件の生き証人だったとか。物語の外枠にあたる部分は、物語自体に比べれば別に無視して構わない一種の「お約束」なのだが、『メイスン&ディクスン』の場合はそうもいかない。というのも、チェリコーク牧師の話を聞いているのは、なんとも手に負えない子供たちだからだ。
特に双子の兄弟が手に負えない。「どちらが先に生まれたのか、一向に意見が一致しなかった為、ピット、プリニーと命名された二人である」(『メイスン&ディクスン』上巻 14頁)。この命名については、柴田氏が付けた星印(*)の脚注をそのまま載せておこう。
*ピット、プリニーはどちらも、the Elder/Younger Pitt, the Elder/Younger Pliny と、二人ずつ有名な人物がいる名。両ピットは十八世紀イギリスの政治家親子。両プリニウス(「プリニー」は英語読み)は一世紀ローマの作家で、おじとおいの関係。
『ヴァインランド』(1990)から最新作『ブリーディング・エッジ』(2013)までのピンチョン作品には、区別できないほど似ている二人組が必ず登場する。大抵はちょっと頭がおかしかったりしてアブナイ連中だが、そんなピンチョン「にこいち」シリーズの中でも、『メイスン&ディクスン』のピットとプリニーは特に邪気が少なくて、この作品を通読した人もきっと覚えているだろう。問題は、そんな双子への呼び名だ。
もう寝る時間よと言われても、双子はそう簡単に納得しない。いっつも一緒にいるうちに、双子みたいにお互いそっくりになっていたメイスンとディクスンの話なら、自分たちこそそれを聞くべきだ、と双子は言う。
「伯父さんの話の測量士二人、——」「——双子同然だったんだよね?」
「左様、或る時点まではな、よく吠える消防犬二匹よ、」(…)
「二つ一組の 本立はもう寝る時間ね、」姉が呼掛ける。
“Your Surveyors were Twins, —” “— were they not, Uncle?”
“Up to a point, my barking Fire-Dogs,” [ … ]
“Bed-time for Bookends,” calls their Sister.
(『メイスン&ディクスン』上巻 452頁、強調は引用者による)
太字で強調した二か所のうち、まず「本立」(Bookends)を見てみよう。「二つ一組の」という語句は原文に厳密に対応するわけではないが、これで正解だ。読書家の方たちにはお馴染みの本立ては、並べた本の右と左でセットになっているのが普通なので、どっちがどっちなのか見分けがつかない双子たちへの呼び名としては最適というわけだ。
問題は「消防犬」(Fire-Dogs)の方で、これは明らかに誤訳だ。そもそも 18世紀のアメリカに「消防犬」が存在したかどうかが怪しい。ただし誤解しないでほしい。『メイスン&ディクスン』の読者は覚えているかもしれないが、ピンチョンはこの作品に、明らかに後の時代になって初めて登場するモノや概念などを登場させている(この点に興味がおありなら、『逆光』の翻訳者である木原善彦氏の『ピンチョンの『逆光』を読む—空間と時間、光と闇』をご一読あれ)。
だから、そういう(意図的な)時代錯誤はあまり重要ではない。この “Fire-Dogs” を「消防犬」とすると誤訳になるのは、ものすごく単純に、それでは文脈にあわないからだ。単なる犬ならまだしも、双子のピットとプリニーが消防犬に喩えられるのはどうもおかしい。
そしてこの不自然さに気づくかどうかは、当然、英語の語学力とは関係がない。「(小説の)翻訳は何故難しいのか?」という問いへの答えを早速言ってしまおう。それは、小説を読む能力と語学力が異なるものだからだ。私はよくこの喩えで人に説明するのだが、語学力と(小説の)読解力との関係は、親と子供の関係によく似ている。産まれたばかりの無力な子供が親(にあたる庇護者)に守られていないと生きていけないのと同様に、小説の読解力を鍛えるために、語学力は絶対必要だ。それにほら、子供が何歳になっても、親が優しくてお金持ちなら、そりゃあその方が何かと助けになるのは間違いないし、それと同じことで、語学力はあればあるだけ決して小説を読むうえで損にはならない。
だが、親と子はあくまでも別の人間であり、ある段階を超えると互いに独立した存在として扱わなければならない。語学力と小説の読解力も、結局は別のものだ。語学力は、外国語文学を翻訳するための必要条件だが、十分条件ではない。何故なら、この場合の語学力とはあくまでも個々のセンテンスを理解する能力でしかなく、しかし、小説を読むための力とは、複数の文・多数の語句によって浮かび上がり常に少しずつ変化する「文脈」を見失わず、時には互いに何百ページも離れたあの場面とこの場面による「共鳴」を聞き取る能力のことだからだ。そして、論理的に言って自明だが、この能力は原則としてその特定の作品にしか通用しない。他の分野ならいざ知らず、外国語で書かれた(優れた)文学作品の翻訳が極度に難しいのは、つまるところ、それがその作品だけの独自の言語で書かれているからだ。
だから、実を言えば “Fire-Dogs” に対する「消防犬」という柴田氏の誤訳も、単なる間違いと切り捨てる気にはなれないところがある。何故なら、柴田氏のみならずピンチョンの愛読者なら知っているだろうが、ピンチョンはとにかく犬好きなのだ。『重力の虹』で実験台にされる犬たち、『ヴァインランド』のデズモンド、『逆光』のパグナックス、そして『メイスン&ディクスン』では人間の言葉を話す驚異のテリア犬等々。ピンチョン世界をよく知る柴田氏が “Fire-Dogs” の一語を読んで、きゃんきゃん騒ぐ二匹の犬を思い浮かべたのももっともなことだ。
では、どう訳すべきだったのか?