柳楽 馨

デヴィッド・フォスター・ウォレス『インフィニット・ジェスト』翻訳日誌

連載第7回: 犬たち猫たち子供たち(前編)

書いた人: 柳楽 馨
2020.
12.07Mon

犬たち猫たち子供たち(前編)

回は有名な翻訳者の誤訳を例に小説の翻訳がどういう風に難しいのかを具体的に説明しよう標的は柴田元幸氏トマス・ピンチョンメイスン&ディクスン』 (1996の邦訳が柴田氏の単独訳で出版された時は私もとても嬉しかったとはいえ柴田訳にもミスはある他人のミスに対する私のこの敏感さが少しでも自分自身の訳文のミスに気付くことに発揮されますようにと星にでも願いたい気分だ

 柴田氏の誤訳の前に、 『メイスン&ディクスンについて簡単に触れておこう1786年クリスマスの時期デラウェア州の裕福な商人ルスパークの家には遠方からの親戚も集っている子供たちの楽し気な雪合戦の様子が描かれるこの冒頭部はピンチョン作品にしては珍しいくらいに無垢でついつい犬は喜び庭かけ回り⋯⋯なんて童謡が頭の中で流れ出す。 「雪玉がすうっと弧を描いて飛び納屋の壁に雪の星をちりばいとこ達の体も雪塗れ」。 原文は “Snow-Balls have flown their Arcs, starr’ d the Sides of Outbuildings, as of Cousins”。 「星印をつけるを意味する動詞 “star” をどう訳すのか難しいところだが要するに雪玉がぶつかり砕けて夜空の星のようになったということだろう作品を通じてが重要な要素なのでこれは良い訳だ雪の星というのがとても美しい

 作品の主人公は天文学者チャールズ・メイスンと彼の相棒の測量士ジェレマイア・ディクスン二人は実在の人物で物語の始まりの 1786年には既に死亡している二人はある測量作業のためまだアメリカ合衆国ですらなかったころのアメリカに渡るそれに同行したとされる架空の牧師ウィックス・チェリコーク牧師がルスパーク家の主とは義理の兄弟にあたりクリスマスの時期なのでルスパーク家に滞在中年末年始子供たちに何か面白い話でも聞かせてやってくれるなら客人としてもてなすのもやぶさかでないというわけでルスパーク家の人々を相手にメイスンとディクスンの珍道中の物語が幕を開ける

 とこういった設定は昔の小説にはありがちだった事件の関係者の手記がたまたま見つかったとか旅先で出会った人が怖ろしい事件の生き証人だったとか物語の外枠にあたる部分は物語自体に比べれば別に無視して構わない一種のお約束なのだが、 『メイスン&ディクスンの場合はそうもいかないというのもチェリコーク牧師の話を聞いているのはなんとも手に負えない子供たちだからだ

 特に双子の兄弟が手に負えない。 「どちらが先に生まれたのか一向に意見が一致しなかった為ピットプリニーと命名された二人である」 (『メイスン&ディクスン上巻 14頁)。 この命名については柴田氏が付けた星印の脚注をそのまま載せておこう

*ピットプリニーはどちらもthe Elder/Younger Pitt, the Elder/Younger Pliny と二人ずつ有名な人物がいる名両ピットは十八世紀イギリスの政治家親子両プリニウス (「プリニーは英語読みは一世紀ローマの作家でおじとおいの関係

ヴァインランド』 (1990から最新作ブリーディング・エッジ』 (2013までのピンチョン作品には区別できないほど似ている二人組が必ず登場する大抵はちょっと頭がおかしかったりしてアブナイ連中だがそんなピンチョンにこいちシリーズの中でも、 『メイスン&ディクスンのピットとプリニーは特に邪気が少なくてこの作品を通読した人もきっと覚えているだろう問題はそんな双子への呼び名だ

 もう寝る時間よと言われても双子はそう簡単に納得しないいっつも一緒にいるうちに双子みたいにお互いそっくりになっていたメイスンとディクスンの話なら自分たちこそそれを聞くべきだと双子は言う

伯父さんの話の測量士二人——」 「——双子同然だったんだよね?

左様或る時点まではなよく吠える消防犬二匹よ、」 (

二つ一組の  本立ブックエンドはもう寝る時間ね、」 姉が呼掛ける

 “Your Surveyors were Twins, —”   “— were they not, Uncle?” 

 “Up to a point, my barking Fire-Dogs,”  [ ⋯ ]

 “Bed-time for Bookends,”  calls their Sister.

(『メイスン&ディクスン上巻 452頁強調は引用者による

 太字で強調した二か所のうちまず本立」 (Bookendsを見てみよう。 「二つ一組のという語句は原文に厳密に対応するわけではないがこれで正解だ読書家の方たちにはお馴染みの本立ては並べた本の右と左でセットになっているのが普通なのでどっちがどっちなのか見分けがつかない双子たちへの呼び名としては最適というわけだ

 問題は消防犬」 (Fire-Dogsの方でこれは明らかに誤訳だそもそも 18世紀のアメリカに消防犬が存在したかどうかが怪しいただし誤解しないでほしい。 『メイスン&ディクスンの読者は覚えているかもしれないがピンチョンはこの作品に明らかに後の時代になって初めて登場するモノや概念などを登場させているこの点に興味がおありなら、 『逆光の翻訳者である木原善彦氏のピンチョンの逆光を読む—空間と時間光と闇をご一読あれ)。

 だからそういう意図的な時代錯誤はあまり重要ではないこの “Fire-Dogs” を消防犬とすると誤訳になるのはものすごく単純にそれでは文脈にあわないからだ単なる犬ならまだしも双子のピットとプリニーが消防犬に喩えられるのはどうもおかしい

 そしてこの不自然さに気づくかどうかは当然英語の語学力とは関係がない。 「(小説の翻訳は何故難しいのか?という問いへの答えを早速言ってしまおうそれは小説を読む能力と語学力が異なるものだからだ私はよくこの喩えで人に説明するのだが語学力と小説の読解力との関係は親と子供の関係によく似ている産まれたばかりの無力な子供が親にあたる庇護者に守られていないと生きていけないのと同様に小説の読解力を鍛えるために語学力は絶対必要だそれにほら子供が何歳になっても親が優しくてお金持ちならそりゃあその方が何かと助けになるのは間違いないしそれと同じことで語学力はあればあるだけ決して小説を読むうえで損にはならない

 だが親と子はあくまでも別の人間でありある段階を超えると互いに独立した存在として扱わなければならない語学力と小説の読解力も結局は別のものだ語学力は外国語文学を翻訳するための必要条件だが十分条件ではない何故ならこの場合の語学力とはあくまでも個々のセンテンスを理解する能力でしかなくしかし小説を読むための力とは複数の文・多数の語句によって浮かび上がり常に少しずつ変化する文脈を見失わず時には互いに何百ページも離れたあの場面とこの場面による共鳴を聞き取る能力のことだからだそして論理的に言って自明だがこの能力は原則としてその特定の作品にしか通用しない他の分野ならいざ知らず外国語で書かれた優れた文学作品の翻訳が極度に難しいのはつまるところそれがその作品だけの独自の言語で書かれているからだ

 だから実を言えば “Fire-Dogs” に対する消防犬という柴田氏の誤訳も単なる間違いと切り捨てる気にはなれないところがある何故なら柴田氏のみならずピンチョンの愛読者なら知っているだろうがピンチョンはとにかく犬好きなのだ。 『重力の虹で実験台にされる犬たち、 『ヴァインランドのデズモンド、 『逆光のパグナックスそしてメイスン&ディクスンでは人間の言葉を話す驚異のテリア犬等々ピンチョン世界をよく知る柴田氏が “Fire-Dogs” の一語を読んできゃんきゃん騒ぐ二匹の犬を思い浮かべたのももっともなことだ

 ではどう訳すべきだったのか?


英米文学を研究しているレッチリの大ファン。『ブリーディング・エッジ』の公式な翻訳の出版を心待ちにしている。下唇の左側に複数のピアスあり。(文責:編集部)
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