イシュマエル・ノヴォーク

コロナの時代の愛

第5話: 六本足のチャーネット

イシュマエル・ノヴォーク書いた人: イシュマエル・ノヴォーク, 投稿日時: 2020.12.05

 玄関の前に置かれた歩行器を見たチャーネットは憎々しげな顔で
「こんなもの必要ない」と言った。ポーリーンは手をヒラつかせて
「折角、物置から引っ張り出してきたんだし。それに、もし転んだりしたら一大事よ?」
「わしは八九歳だが、年寄りじゃない」
「転んで骨折でもしたら大変。転ばぬ先の杖って言うでしょ?」
「これは杖じゃない」
「えぇ、そうね。そう。単なる補助。それ以上でも以下でもない。これ、ずっと使っていなかったんでしょう? たまには使ってあげないと錆びちゃうわよ?」
「わしみたいにか?」
「錆びついた人はフロックコートを着たりしないわ」
 ポーリーンはポケットをまさぐり「それから、これもね」と言った。
「バスに乗るだけだぞ?」
「それがないと差別主義者だって思われるかもね」
 大きな溜息をついたチャーネットはそれを受け取り、耳にゴム糸を引っ掛けた。ポーリーンが「気を付けてね」と言った。全身に力を込めたチャーネットが歩行器を押して歩き出す。小鳥たちが囀り、リスが街路樹の幹をかけ上がって黒々とした二つの目をパチクリさせる。リスは小鳥用のヒマワリの種の殻を前歯で噛み砕いて急くように口内に放り込む。

 一ブロック歩いてバス停のベンチに腰掛けたチャーネットの額には汗が滲んでいた。チャーネットは掲示板に書かれた到着時刻を見ようと目を細めるものの文字は笑うばかり。掲示板から目を逸らしたチャーネットは空を見る。千切れたパンのような、行進する羊雲。

 バスが到着し、油圧式のドアが金切り声を上げる。チャーネットが段差に難儀していると、座席に座っていた、口にタオルを巻いているアフロ・アメリカンの青年がやってきて
「手を貸すよ」
「すまない」
「ドアの隅っこを握っていてくれよ。その間に、この車椅子をいれるからさ」
 チャーネットがドアのヘリを掴んでいると青年は歩行器を片腕でひょいと持ち上げて出口の近くに置いた。青年は戻ってくるなり身を屈めてチャーネットに肩を貸した。運転席から溢れそうなほど大柄な運転手が
「ありがとよ、フィニアス」と言った。フィニアスが
「大したことじゃないよ。それより、前を見て運転してくれ? この前なんか停留所を通り越したし」
 運転手が「誰だって、眠たくなっちまう時ってあるだろ?」
「寝るのはベッドかソファだけにしてくれよ」
 やっとの思いで座席に腰掛けたチャーネットが
「棺桶にはまだ早い」
 運転手とフィニアスは目を見合わせてから笑った。運転手が太い眉毛を上下させると
「セニョール、今日は大丈夫さ」
 バスが走り出す。まばらな乗客たちは全員、示し合わせたようにスマートフォンの液晶パネルを見ている。隣に座るフィニアスが言う。
「どこまで行くんだい?」
「……ウェスト・パウエル通り」
「おれは一本先のチカソー通りまでだ。もし良かったら、降りる時に手を貸すけどどうだい?」
 チャーネットがフィニアスの顔を見る。顔の半分はタオルで覆い隠されているものの、悪い印象はなかった。チャーネットが
「悪いが、お願いするよ」と言うと、フィニアスが首を縦に振って
「困っている時はお互い様さ。たとえば、おれの話。二か月前まで群庁舎の食堂でコックをやっていたんだけど、このご時世だし仕事にあぶれちまった。家の中で、どうやって家賃を払うかばかりを考えていたら家賃を滞納しちまって、大家に叩き出されたよ。家無しで、どうにもならない状況だったが、ふと、叔父さんと叔母さんとが住んでいた家が空き家になっていることを思い出したんだ。急いで施設に入っている叔父さんに電話したら、自由に使ってくれと言ってくれた。しばらく暮らすつもりさ」
「引っ越しというわけか」
「そう、引っ越し。家にあったものは全部、大家にくれてやったよ。売り払えば一か月の家賃ぐらいにはなるかも知れないし」
「ご両親は?」
「もういないよ」
「わしと一緒だな」
 フィニアスが笑い、目尻が下がる。
「どうして、ウェスト・パウエル通りなんかに行くんだい?」
「人に会いに行くんだ」
「あんまり歓迎されないぜ?」
「自分でもそう思う。もし、今、誰かが訪ねてきたとしても、いい顔できそうにない。今やるべきことじゃないと思う。もっと昔にやるべきだった。でも、これ以上伸ばすことはできない。こんな齢になって、まだ後悔したくないと思っている。恥ずかしいよ」


『ロクス・ソルス』という同人小説サークルで活動しています。それから、ジャズピアノの演奏活動をしています。気が向くと絵を描いたりします。
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