コロナの時代の愛
第4話: フランス組曲
イトスギの響板に開けられた穴には金属の飾りがはめ込まれている。 時計の文字盤みたいな装飾のローズ。 ローズの上には真鍮と丹銅の弦が張られている。 週に一度は自分で調律する。 誰もいない居間で行う調律は作業じゃない。 それじゃあ、 芸術? なんだか厳めしく聞こえる。
この曲を選んだことは後悔していない。 指導員のレイフマンは 『イタリア組曲』 を弾かせようとしたけれど、 あたしの好みじゃない。 レイフマン曰く
「その曲は甘ったるく、 俗悪な趣味だと思われるだろうね」
レイフマンは 『イギリス組曲』 と 『ドイツ組曲』 以外のJSの曲を認めていない。 なら、 どうしてあたしに 『イタリア組曲』 を勧めたのか。 わかりやすい侮辱。 この仕打ちには理由があるけれど、 そのことについて言う気はない。
そういう意味では今の状況に満足している。 思う存分、 練習できるし、 レイフマンの顔を見なくて済むから。
クラウス・エングラーの原典版の譜面が好き。 フレージングついて書かれていないから自分で考えなくちゃいけないし、 トリルの処理をどうするべきか考えなくちゃいけない。 トリルの考え方は時代によって違った。 うんざりさせられる練習曲ばかりを書いたツェルニーの解釈が間違っていたことは皆が知っている。 皆? いいえ、 違う。 このアパートに住んでいる人たちぐらいは。 でも、 ツェルニーはいい人だったみたいだし、 時代によって見えるものが違うということかしら。
あたしは奨学金について考える。 レイフマンが嫌がらせをしようとしていることは知っている。 レイフマン曰く
「ミス・ケチャッムは怠惰で反抗的、 ついでに不道徳な学生」
レイフマンが告げ口すればどうなるのかしら? 今はウェイトレスやシッターの仕事にありつくのも難しい。 誰もが他人を遠ざける時代なのだから。 気分転換にとテレビを点けてもフェイクニュースと陰謀論、 人種差別ばかり。 来年には荷物をまとめてワシントンから立ち去る大統領の画面一杯のアップ。 彼を見て学んだことがある。 それは、 自分の国を愛するのではなく、 恥じることがその国に帰属する証だっていうこと。
やらなくちゃいけないことがある。 それは練習。 指導員たちの前での演奏はテストをパスするためでもあるし。 怠惰じゃないことを証明しなくちゃ。 だから、 今は種が土の中に潜んでいるような時。 春が訪れなかったことはない。 エリオットが書いたように残酷な月かも知れないけれど。
ブーレ、 アポジャトゥーラ、 弦鳴りの響き。