イシュマエル・ノヴォーク

コロナの時代の愛

第3話: フロックコート

イシュマエル・ノヴォーク書いた人: イシュマエル・ノヴォーク, 投稿日時: 2020.12.05

 クローゼットを開けたチャーネットはカット・アウェイ・フロックコートに袖を通した。フロックコートはサイズが間違っているかのようにぶかぶかだった。着替えを済ませたチャーネットが電気ケトルで湯を沸かしていると廊下を歩く足音が聞こえた。チャーネットの恰好を見たポーリーンは驚いた顔で
「どうしたの?」
「おかしいか?」
「八九歳の老人がそんな服装」
「毎日、自分の顔みたいに皺の寄った寝間着を着て、昼も夜もお構いなしにしていればいいのか? それとも、死んだようにテレビを観ていればいいのか?」
「突っかかるわね。どうかしたの? 今、コーヒーを淹れるから座って待っていて」
 チャーネットがうなずくとポーリーンは冷蔵庫を開け、真空パックに入ったたんぽぽコーヒーの粉末をとり出した。ドリッパーに紙フィルターがセットされ、目分量で粉末が落とされる。チャーネットは椅子に腰掛けると
「計量スプーンがあるだろう? それじゃあ、濃すぎる」
 ポーリーンは片手で電気ケトルを持ち上げると湯を注ぎ、空いた手を腰に手をやり
「それで、どうしてそんな恰好をしているの?」
 たんぽぽコーヒーが注がれたカップがテーブルの上、チャーネットの前に置かれた。一口飲むなりチャーネットが「お前は飲まないのか?」
「結構よ」
 喉を鳴らし、咳払いしたチャーネットが言う。
「人に会いに行くんだ」
「誰? 海兵隊時代の戦友?」
「いいや。昔、親しかった人だ」
「友だち?」
「もっと近い」
 ポーリーンは顎に手をあて「じゃあ、恋人?」
 チャーネットがコーヒーを飲み、小さく溜息をつく。
「心の底から愛していたよ」
「なんていう名前の女性?」
「アニー・グロス。今は……アニー・モフェット」
「え? それってもしかして、亡くなったモフェットさんの奥さん?」
うなずいたチャーネットが「わしのほうが先にアニーを愛していた」
ポーリーンは口笛を一吹きすると「やるわね」
「当時のわしは隠れて彼女と会った。うんと離れた、人気のない所まで自動車を走らせた。いつも彼女は歩きだった。お互いに愛し合っていたが、あの頃は人種が違うということが今よりももっと……」
「デリケートだった?」
「そうだ。彼女がワシントン大行進に参加しようと言った時、わしは躊躇った。二人でバスに乗ったりすれば家族や同僚に知られることになる。その結果、どういうことになるか……恐ろしくてたまらなかった」
「気にすることなんてない」
「お前は今を生きている。わしも生きてはいるが、本当の所、過去がよぼよぼ歩いているだけにすぎない。アニーにさよならを言われた夜にわしは死んだんだ。臆病風に吹かれてな。だが、まだやることがある。言うべきこと、本当はもっと前に言うべきだったことを彼女に言いたいんだ」


『ロクス・ソルス』という同人小説サークルで活動しています。それから、ジャズピアノの演奏活動をしています。気が向くと絵を描いたりします。
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