杜 昌彦

D.I.Y.出版日誌

連載第286回: 底なしの悪ふざけ

杜 昌彦書いた人: 杜 昌彦
2020.
10.14Wed

底なしの悪ふざけ

作家であることに他人や社会はあまり関係がない。生まれついた呪いみたいなものだ。それに対して編集者はあくまでプロフェッショナルな職業であって、社会によって規定される立場以外の何ものでもない。作家を名乗るのは臆面もなくやれて恥じるところがないのだけれど、編集者についてはどうがんばっても詐称にしかならない。したがって自分のやっていることを何と呼ぶべきかよくわからない。柳楽先生とは松田守正名義でやりとりしている(筆名は本名に彦をつけたものだ)。最初に『ブリーディング・エッジ』の邦訳テキストをねだった際、まちがえて業務用アドレスではなくふだん使いのgmailで送信してしまったからだ。本名はすでにこれまでにも発行人として奥付に記載している。「編集者」としては本名を、作家としては筆名を使うのがよいのかもしれない。だとしたらこの編集日誌はだれが書いているのか。「編集者」松田なのか「作家」杜なのか。だれでもいいや。どうせ何者でもない人間だ。うへさんに単行本化の話をもちかけたら記念文集の製本みたいに思われてしまった。ちゃんとISBNもJANコードもついて流通に乗るのだが。Amazon、楽天、hontoなどに並び、丸善の店頭からも注文できる。あいにく出版社コードがないので一般的な流通には乗せられない。いくつかの可能性を検討したがスノッブな世界に感じられて断念した。書誌情報でも同じことがあった。売上が立たないと使えないPA-APIの代わりにopenBDを検討したがそもそものデータベースに、出版社コードを持たない出版者に登録項目の制限があって使いものにならない。既得権益だとか旧態依然だとか批判したいわけではなく、今後の出版や読書のありようにはただ役に立たない。そうした特殊な慣習は歌舞伎のように時代の変化とは関係なく残るものなのだろう。そういえばBCCKSはAmazonPODの仲介事業に参入しないのか、ふと気になって確かめた。やはりまだ対応していないようだ。ストア配本サービスにしてもKUの恩恵を棄ててまで利用する価値は、小説の場合は現状ない。漫画であれば使う価値はある。読み放題ではなく単品買いでも読まれるし(最初の巻だけを無料お試し版として別に配布する手が使える)、多販路に展開されているほうが専売よりも作品への信頼感が向上する。Kindle、Kobo、BW、iBooksの自力で登録できるサービスも、手間を考えれば低料率に甘んじてでも一括で託す利点はある。漫画であればの話だ。小説は読書体験の質が違いすぎてAmazon依存から抜け出せない。ところが漫画についてはまるで逆だ。Amazonはストアからビューワに至るまですべての体験が劣悪だ。BookLive! のような国内サービスとは較べようもない。それはAmazonが漫画にかぎらず嗜好というものをまるで理解していないからだ。関連付けにもその問題はあらわれている。YouTubeやSpotifyと較べて精度が低すぎる。単純に電子版の出版点数がごく最近まで少なすぎたせいもあるが、それだけではない。着目点が人間の行動にない、というか視点というものがそもそも欠けているのだ。アルゴリズムによる収益の効率的な最大化しかAmazonは考えていない。googleはひとの動きを見ているのでYouTubeのお薦めにはユーザの嗜好を反映したコンテンツが表示される。Spotifyもしかりだ。Amazonは彼らが売りたい商品しか表示しない。しかも悪いことに人為的に弄ってまでそれをやっている。この問題が改善されないかぎりAmazonは三十年以内に凋落するだろう。それはそれとしてこの三ヶ月間、毎日クリックはされるのに購入に結びつかないので困っている。奇妙なことにPA-APIで情報が取得できなくなって価格表示ができなくなったのが先なのだ。売上が立たないから商品情報が取得できず表示できなくなった、のではなく、商品情報がたまにしか取得できなくなり(これ自体は売上が少なかったせいだと思われる)、該当箇所をコメントアウトしてから購入に結びつかなくなった。アフィリエイトブログでは一般に、価格情報を表示すると売上が落ちるといわれるが人格OverDriveでは違うらしい。見た目をゴージャスにしたほうが信頼感が向上するのだ。価値ある原稿を預かる立場上、ユーザ体験の質は意識せざるを得ない。アクセス解析から客層がおぼろげながら見えてくる。男女がほぼ半々、二十代後半から三十代後半、多くは小学生から中学生の子どもがいて、芸術と読書と教育に関心があり、iPhoneで閲覧している。五月末に寄稿者の連載がはじまる前はAmazonの客層を反映して、アニメとゲーム好きの中高年男性ばかりだったから改善されつつある。場所は横浜、ついで大阪が圧倒的に多い。次が新宿区、千代田区、世田谷区、京都、港区、長崎、福岡、名古屋の順。ソーシャルメディアの利用が活発な地域とほぼ一致するように感じられる。かつて広告を打った地域とも重なっているので、あるいは広告閲覧者がそのまま読者として残ってくれたのかもしれないが、たぶんそれはないだろう。もっともよく閲覧されているのは圧倒的にうへさんのカテゴリトップ。ついで若林さんのカテゴリトップ。記事別でいえば圧倒的に柳楽先生と諸屋さん、ついでイシュマエル氏。うへさんが記事別よりもカテゴリトップで圧勝しているのは、おそらく固定客が新規投稿や過去記事を求めて何度も訪れるからだろう。次に広告を打つときにはこのあたりも考慮に入れる。きのうは『GONZO』を少しでも書き進めるつもりだったが「編集者」としての作業で一日が暮れた。きょうはどうなるか、まだ時間はある。『ダンス・ダンス・ダンスール』の最新刊で指導教官が、表現者としての道をきっぱり諦めなければよい教育者にはなれないと語る場面があった。よい編集者になるには作家としての自分を諦めろという意味にも読めた。自分の書くものはゴミ以下だが寄稿者の作品には価値がある。世間に伝え広める義務がわたしにはある。「編集者」として悔やんでいるのは若林さんに対してもっと図々しくコミットすべきだったろうということだ。プロに無料で書いていただいている引け目から中途半端な遠慮が働いた。どうせ同じことなのだからもっと強引に厚かましく関わってもよかった。本をつくるには視点が重要で、見るということはそれ自体が暴力だ。書いて公開するのは自傷であり、編集はそれを幇助する。混沌に秩序を与えて(つまり第三者の視点という狭い枠に押し込めて)可視化する営みがなければ本は世に出ない。その意味で編集は本質的に欠かせない暴力なのだ。まともな人間なら成果が得られなければ諦めて次へ行く、という話を耳にした。わたしはばかだから、やめない。わたしに何か強みがあるとしたらそういう種類の「しぶとさ」なのかもしれない。それを作家と呼ぶのか編集者と呼ぶのかわからないが、たぶん、出版者ではあるのだろう。


(もり まさひこ、1975年6月18日 -)著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、藤井太洋氏、十市社氏らによる指導を受けた『悪魔とドライヴ』が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。最新作は『ぼっちの帝国』。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。
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