柳楽 馨

デヴィッド・フォスター・ウォレス『インフィニット・ジェスト』翻訳日誌

連載第4回: 世界が終わるとしか思えない輝き(後編)

書いた人: 柳楽 馨
2020.
10.21Wed

世界が終わるとしか思えない輝き(後編)

承前

学テニスチームのホワイトという名のコーチや幾人かの大学の部局長を踏まえた面接が進むにつれてハルの経歴特に学業成績について疑問の声が上がりはじめるもちろんすかさずチャールズ・テイヴィスが助けに入る

もし僕がそうさな “revenue-raising” なアメフトの天才児だとしたらスコアについての雲行きは怪しくもなくなるだろうかということを運動部局長にきいてみてはくれまいかとチャールズおじさんがホワイトコーチにきいている

Uncle Charles is asking Coach White to ask the Dean of Athletic Affairs whether the weather over scores would be as heavy if I were, say, a revenue-raising football prodigy.

 やや煩雑だが英語の授業のつもりでいくつか解説しよう原文二行目の “say” は、 「言うではなく何か具体例を挙げたりする時に用いるはっきりした意味のない表現で、 「そうさなとした原文一行目では “whether”⋯かどうかと “weather”天気というほぼ同じ発音の語が並んでいるこれは一種の言葉遊びと判断して、 「行きは怪しくもなくなるだろうかとしたチャールズ叔父がテニスではなくアメフトの天才児といっているのはハルの長兄であるオリン・インカンデンザが大学でアメフトをはじめて現在は NFL で活躍するほどの選手であることを踏まえている

 さて問題は “revenue-raising” だ意味するところは難しくないアメフトや野球やバスケのように人気のあるスポーツの有力選手は大学でも引く手あまたでそんな選手を獲得できれば試合の集客等で大学の収入revenueが増すraise見込みがある

 この場合の問題は果たして作者 DFW がどちらも “R” ではじまる単語をはっきり意図して二つ並べたのかどうかがはっきりしないということだ “revenue” を “raise” する上昇させる増大させるという表現は十分ありふれている。 「十分というのはつまりDFW が特に深い考えもなくこの表現を選んだ可能性が十分あるくらいにということだもしこの二つ並んだ “R” に深い意味がないなら何ということもなく、 「収入増大につながると訳して構わないしかしもし DFW が意図してこの二つの “R” を並べたならそれに応じてやはり頭韻その他工夫を凝らす必要があるだろう迷った挙句ここは意図的な頭韻と判断して大学の事情をふかふかにしてくれるとした

 こうして問題が明らかになるつまり翻訳者は自然とその作品を細かく読み目立ちにくい特徴や見落としがちな齟齬に気づくことになるがそんな特徴や齟齬が作者の意図したものであるかどうか判別することはできない言葉とはそういうものだ言葉が人と人をつなぐとか能天気にそういったことを言う輩は十中八九ただの素人だ言葉とは人と人の間の超えられない無数の極薄の壁といった方がはるかに近い

【上級編】

インフィニット・ジェストで最重要のテーマのうちの一つがコカインやヘロインや酒などの依存症の問題であることには前回の連載でも触れた21歳の女性ケイト・ゴンパートは何度も何度も止めようとして止められなかった大麻のことを俗語でホープ希望)」 と呼ぶのだが鬱病になり自殺未遂で病院に運び込まれた彼女はもはやどう見てもホープレス絶望的。 『インフィニット・ジェストの中でこういう中毒者を描いた箇所は何年も煙草を止められない私には胸に迫るケイトは今運び込まれた病院で医師らしき人物相手に少しずつ自殺しようとした背景を語りだす

何もかも怖ろしいことになる見るものすべてがひどいことになるLurid って言うのガートン先生が一度lurid って言ったぴったりの言い方何もかもギザギザに聞こえる刺々しくてギザギザした響きでまるで聞こえる音すべてに突然歯が生えたみたいどこもかしこもまたシャワー浴びなきゃいけないような臭いがするなら体を洗う意味って何? みたいな

 まったく救いの道が見えないどうしようもないこの気分自ら命を絶つ前の DFW もこんな風に思っていたのだろうか言い忘れていたが、 『インフィニット・ジェストに並ぶ大作になっていたはずの蒼白の王』 (The Pale Kingを未完のまま残して自殺した作者 DFW も精神に不調をきたしてこの引用部のケイトと同様の辛い治療をうけていたそう考えると尚更この箇所は念入りに訳さないといけない

 上級編はもちろん英語のままにしておいた形容詞 “lurid” だ辞書を引けば赤く輝くとかけばけばしいとかいう意味が出てくるそういった訳語としてまずどれを選ぶのかが難しいが問題はさらに広がる

 というのもこの “lurid” という単語はケイト・ゴンパートが感じたどうしようもない絶望以外のものについても用いられていてその都度微妙に意味が異なるハルと同じテニス・アカデミーに通い違法薬物の調達役を引き受けているマイケル・ペムリスという少年がいるのだが彼は特にお気に入りの薬物の影響で眼球が小刻みに震える眼震を起しそんなときの目はいつもよりもルリッドだとされる充血して赤い目? しかし視界が赤くどぎつい色に染まるのと目自体が赤くなるのとは違う⋯⋯この場合果たして二つのルリッドに同じ訳語をあてるべきだろうか?

 ここでも中級編と同じ問題が浮上する。 「派手に赤く輝くといった意味の “Lurid” を作者 FDW はどれくらい意識的に使っているのだろうか特に意識してしていたわけではないというならあえて同じ訳語に統一するとかえって不自然になるが意識していたのならやはり作者の意図を反映させてせめてふりがなでルリッドとしなければならない

 そして、 「ルリッドの登場箇所はまだまだあるマイケル・ペムリスのみならずハルの兄オリンを調べている巨漢の諜報部員が何故だか女装する時にかぶるかつらの髪の毛の色もルリッドハルを中心とした人々の人生のそれぞれの一コマにこの “Lurid” という一語が紛れ込む時私はどうしたものかとその都度頭を抱える

 こうして気がつけば以前にも書いた問題にもう一度直面している翻訳とは絶対に答えてはくれない誰かに向けて呼びかけ続けるようなところがあるまるでそうしていればいつの日か死者が返事をするかのように

 デヴィッド・フォスター・ウォレスインフィニット・ジェストを訳していて何度も何度も思うことは要するに、 「こんな作品を隅々まで読む人間がいるなんてウォレスは本当に正気でそんなことを考えていたのか?ということだ作家たちはこんな恐れを感じているのだろうか? 何の光も見えない闇の中をただひたすら進み自分が前へ前へと進んでいるのかむしろ大きな円を描き堂々巡りしているだけじゃないのか──そんな底なしの恐怖の中でそれでも何か輝きのようなものが見えるとしたらそれは本当に夜明けの光なのかあるいは夜明けなど時間が経てば必ずやってくるのだから夜明けとは違う光を見てしまう人間だけが作家になるのかもしれない

 ところで冒頭で言及したウラジーミル・ナボコフの自伝記憶よ語れの冒頭はとても美しい。 「深き淵にて揺りかごは揺れる “A cradle rocks above an abyss.”  似たような音 “C” と “R” と “A” と “B”を重ねつつぎゅっと圧縮するこの冒頭の一文をナボコフはきっと練りに練って書いただろうそんな作家たちの労苦をくみ取って訳すことはもちろん難しいのだが本当にそんな労苦の結果として出来上がったものなのかどうかすらわからない場合はもはやどうしようもない私はただ深き淵をぐるぐると回りながらいっそその中に落ちてしまいたい誘惑に耐えつつ翻訳をすすめていこうと思う

第三回 了


英米文学を研究しているレッチリの大ファン。『ブリーディング・エッジ』の公式な翻訳の出版を心待ちにしている。下唇の左側に複数のピアスあり。(文責:編集部)
ぼっち広告