それは火にしては色がおかしかったし、 夜明けという可能性は問題外だったが、 世界の終わりという可能性もないわけではなかった。
──トマス・ピンチョン 『逆光』 (木原善彦訳)
噂の域をでないはずなのにいつの間にか既成事実として語られる情報というものがある。 たとえば、 米国ポストモダン文学を代表する作家トマス・ピンチョンが、 学生の頃ウラジーミル・ナボコフの授業に出ていたとかなんとか。
ナボコフは、 小説の優れた読者は、 潜在的に作家であるとも語っているが、 これは噂ではなく本当のことだ。 そして、 色々と留保しなければいけないのだが、 さしあたってこれは真実だとも思う。 デヴィッド・フォスター・ウォレス (DFW) 『インフィニット・ジェスト』 を翻訳する私も、 どこか作家的な読み方・考え方をしなければいけない。
しかし、 作家的な読み方をするということは、 その作家の身になって考えるということとは少し違う。 今回は、 こういうことについて考えながら、 初級・中級・上級と三つの例をあげて 『インフィニット・ジェスト』 の厄介な読みどころを紹介する。
【初級編】
『インフィニット・ジェスト』 には、 「限りない嘲りの人 (インフィニット・ジェスター)」 と称される人物が登場する。 それは主人公ハル・インカンデンザの父親ジェイムズで、 ハルに輪をかけたこの天才による発明や理論のおかげで、 作品に描かれる 21 世紀初頭のアメリカは豊かな暮らしを一応は維持している。 ハルがまだ幼い頃に自殺したジェイムズは、 風変わりな作品を撮ったり撮り損ねたりする映画監督でもあった。
小説 『インフィニット・ジェスト』 も、 いったいどこまで人を馬鹿にしたら気がすむのか、 わざわざ小説の本文に註がついている。 ジェイムズの映像作品一覧が並ぶ註 24 は、 註のくせに8ページもある。 今思うと不思議だが、 この長い長い註を訳していたとき、 本当に翻訳が永遠に終わらないかと思ってしまい、 何か底なしの悪い冗談に巻きこまれたような気がした。
初級編は、 そんなクソ親父が残した映画のタイトル。 いくつも列挙される彼の映画作品の中に、 次のようなものがある。
Dial C for Concupiscence. [ ⋯ ] ソーマ・リチャードソン=レヴィ=オバーン、 マーラ=ディーン・チャム、 イブン=サイード・チャワフ、 イヴ・フランクール出演。 [ ⋯ ] ある携帯電話交換手 (チャム) が人違いで FLQ (ケベック解放戦線) に暗殺されかけ、 ケベック州のテロリスト (フランクール) はこの交換手を別の携帯電話交換手 (リチャードソン=レヴィ=オバーン) と間違えて暗殺を試みてしくじり、 テロリストが彼女 (リチャードソン=レヴィ=オバーン) に謝罪しようという誤った試みをするのを彼女は自分を暗殺しようとしているものと見誤り、 不可思議なイスラム教の宗教的コミュニティに逃げ込むが [ ⋯ ]。
この映画のあらすじはこれでもかなり分かりやすく訳している。 原文には “mistake” 「間違う」 という動詞 (およびその派生語) が四回使われて実に分かりにくい。 ともかく、 問題はこの映画のタイトルをどう間違いなく訳すかだ。
それほど映画好きならずとも気づくだろうが、 このタイトル “Dial C for Concupiscence” は、 アルフレッド・ヒッチコック監督の名作 『ダイヤル M を廻せ!』 (Dial M for Murder, 1954) をもじっている。 だから 『ダイヤル C を廻せ!』 でもいいが、 物足りない。
ダイヤルが “M (urder) ” でも “C (oncupiscence) ” でも、 これは 「ドはドーナツのド、 レはレモンのレ」 風に同じ音を合わせたタイトルなので、 邦訳もそれに合わせたい。 幸い、 普通の英和辞書でも “concupiscence” を引けば、 「色欲」 (しきよく) という訳語が見つかる。 ただ、 「色欲」 だと何となく般若心経みたいなので、 似たような意味で 「色」 からはじまる単語を探し、 『色情ダイヤル C を廻せ!』 はどうだろう。
ところで、 この映画のあらすじを見る限り、 登場人物が 「色欲」 だか 「色情」 だかに駆られ、 銀幕の上で 18 歳以下には見せられないあんなことやこんなことをくり広げる気配はない。 「色情ダイヤル」 はどこにもつながらず、 終わりのない呼び出し音だけが聞こえてくるのかもしれない。
と、 こんなことを考えながらふと思ったが、 そもそも携帯電話である以上ダイヤルを 「廻せ」 という表現は不自然なのでは? 近頃は公衆電話の使い方を知らない子供もいると聞くし⋯⋯いや、 それ以前に、 そもそも携帯電話の交換手 (cellular phone operator) なんて存在するのか? 初級編からこんな調子だが、 お分かりの通り、 普通に読んでいると気がつかないようなことに気づいてしまうのが翻訳者というものだ。
【中級編】
厄介な映画を撮りつづけて自ら命を絶った父親を持つとはいえ、 実はハルは、 そこまで奇矯で突飛な少年ではない。 この連載の第一回で触れたようにハルは言葉の天才だが、 必ずしも多弁ではない。 多弁なのはむしろ、 ハルの母親アヴリルの腹違いの兄 (もしくは弟) にあたるチャールズ・テイヴィスという伯父の方だ。 『インフィニット・ジェスト』 の冒頭、 大学への奨学金付きの入学のための面接でハルについてきたチャールズ・テイヴィスの台詞の一カ所が中級編となる。
『インフィニット・ジェスト』 は、 いわゆる 「自由間接話法」 に近い文章を多用している。 小説の語り口は大きく言って二種類ある。 主人公が自らを 「僕」 とか 「私」 と呼びながら語るか、 それとも語り手が登場人物を 「彼」 や 「彼女」 のように呼ぶかだ。 しかし細かく分析すれば、 この二つのいずれとも言えない中間状態の文章が多くあることがわかる。 つまり、 一見誰か他人がその登場人物を外側から語っているいるかのようだが、 明らかにその人物でなければ使わないような表現が混じり合うようなことが小説では多々見うけられる。
小説の語り手は、 どこかしら幽霊のようだ。 物語の世界に透明に漂う不思議な存在だ。 確かにその作品の世界の中にいるのに、 他人の行動を眺め、 他人の言葉を聞くことしかできない受け身な存在が、 私たち読者にそっと語りかけている。 登場人物そのものではないけれど、 かといって全くの第三者とも思えない。 こういった曖昧な語り手は詩や戯曲ではなく小説でこそ問題になりやすい。 先鋭的な意識を以て書く作家たちは大抵こういうことに気が付いている。 一体、 誰が語っているのか? 多分これは、 Twitter 等で匿名の声の奔流が可視化された現代でこそ切実になる問いだが、 そういう小難しい話はとりあえずやめておく。
『インフィニット・ジェスト』 冒頭部に、 こういう微妙な語り手の問題がいきなり現れている。 この箇所でハルは、 一人称小説のように 「僕は⋯⋯」 と語っているのに、 登場人物としてのハルは一向に口を開かない。 一人称の語り手が語らない限りその小説自体が進まないのだから、 その語り手の役を引きうけた人物は饒舌にならないわけにはいかない。 それなのに何故か無言を貫くハルを、 大学側の担当者も不審に思いはじめる。 ハルがいかに優れたテニス選手かをぺらぺら喋りまくるのは伯父のチャールズ・テイヴィスであってハル自身ではないからだ。