杜 昌彦

D.I.Y.出版日誌

連載第285回: 個と場(ことば)

杜 昌彦書いた人: 杜 昌彦, タグ:
2020.
10.13Tue

個と場(ことば)

アクセス解析を見ると寄稿者の連載がはじまった五月末から順当に閲覧数が増えつづけている。KDPの管理画面を見るとモールに優先表示してもらった(カルーセルに表示された)ときがもっとも稼げて、それ以降は激減しているのだけれど、FBやgoogleやtwitterに広告を出せばそれなりに棒グラフが上昇する。Amazon広告はやり方がむずかしいし競合があると表示されなくなるので効果を感じたことはない。それらの経験をあわせて考えればいまが広告のタイミングのように感じられる。人格OverDrive史上もっとも読まれたのは柳楽先生の連載開始翌日だ。あの熱量を維持できればよかったのだけれど。コンテンツビジネスとはすなわち権利ビジネスで、権利者が許すあいだだけ利用できる。いったん流通すれば壊れるか再生手段がなくなるまで利用できるモノのビジネス、とはそこが異なる。というところまではこれまでにも考えてきた。コミュニティについて考える過程でまた別の面も見えてきた。人間の価値の高低差で儲ける側面だ。評価経済社会においてコンテンツビジネスは、富める者が持たざる者から搾取する商売だ。やりたいのはそういうことなのか。否、と断言できる。他者と較べる必要のない絶対的な価値が作品にはあると信じていて、その価値を広く提示したい。であるならば進むべき方向はコミュニティではない。「コンテンツに絶対的な価値などない、価値は他者(社会)の評価によって決まる」……それはそれでたしかに正しいが、その考えを推し進めれば評価経済のファシズムになる。作品価値は他者の尺度など入り込む余地のない、情け容赦のないものだと信じる。物理法則のように、神のように揺るぎないものだと。人格OverDriveではそういうものを展開していきたい。オール・トゥモロウズ・パーティーズをはじめた意図はコミュニティではない。作家の自意識を垂れ流すアクティヴィティ・ストリームの媒体として必要なだけだ。ソーシャルメディアなど求めていない。絆とか要らない。ゲーム的な世渡りに最適化された器用な人間など見たくない。作家だってそりゃ会話くらいするよ。それ自体、芸であってコンテンツだからね。お手軽に消費できるかのように装う(あるいは実際にお手軽に消費できる)世渡りなどでは決してない。人格OverDriveはそういうソーシャルメディア的な価値観から自由でありたい。前はBuddyPressを使っていたけれどあれはトゥーマッチだった。コミュニティのための仕組みを「個」に焦点を絞って用いたからだ。評価経済における相対評価ではなく作家個人への関心で見せたい。作家に対する関心で読ませる、という点でうへさんの客層はわたしの考える導線に合致している。いんちき編集者としてのわたしの着眼はそう考えるとそれほど悪くないのだけれど、自分に適用しようとするとどうもうまくいかない。わたしという人間に評価経済における価値がないからだ。他人や社会の評価などくそくらえ、「個」の絶対的な価値を追求するのだ。そう考えるとコミュニティへ進むのは明らかに誤りなのだが、しかし作家への関心を想定するなら、導線としても支持基盤としてもコミュニティは必須に思える。そうするとやはりnoteみたいに、評価経済における人間の価値の高低差を利用してエネルギーを生み出す方向になる。それは中央集権の搾取であって「個」の尊重とは正反対だ……。どうもこの辺の整合性をうまくつけられない。いつまでたっても堂々巡りだ。そこが解決しないかぎり進む先が見えない。西浩孝さんの「編集室水平線について」という文章を読むと、これは角川源義の「角川文庫発刊に際して」とおなじくらい好きな文章なのだけれど、おなじ岩盤をたがいに逆の側から掘削しているような印象を受ける。武器や出発点が異なるだけで、やっていることは変わらないというか。「独立した精神に拠って立つ〈個〉であること」なんて言葉を見ると、どうもそんな気がしてならない。わたしには知識も経験も人脈も出版社コードもないけれど、それらとは真逆の、サミズダートの手法はそれなりに知っている。やれることはまだあるはずだ。


(もり まさひこ、1975年6月18日 -)著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、藤井太洋氏、十市社氏らによる指導を受けた『悪魔とドライヴ』が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。最新作は『ぼっちの帝国』。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。
ぼっち広告