モールの表示には頼れない、ほかの検索語句からの流入は期待できない。指名買いしか導線はあり得ない。コミュニティの支持基盤がない無名の(あるいは小説家としてはキャリアのない)作家を指名買いさせるにはどうすればよいか。まずは知ってもらわねばならない。関心を持ってもらわねばならない。読みたくなってもらわねばならない。ソーシャルメディアにせよモールにせよ既存のコミュニティは自分の外側にあるものなのでコントロールできない。ならばコミュニティをつくるところからはじめる、というのがひとつの手だ。そっちに舵を切ろうと思えばやれないこともない。ソーシャルな要素は向いていない、憎んでさえいる。だからやりたくないが、なんらかの権威づけがなければ指名買いは成立しない。コミュニティに依拠するにせよしないにせよ、他人の力を利用することなしには何も実現しない。依拠しないのであればだれか権威者をひっぱってきて称賛してもらうしかない。独裁者やカルト教祖がダライ・ラマと記念写真を撮りたがるようなものだ。あまり思い返したくないが実際にそのようなことを試した経験もある。ほかの手を思いつかなければコミュニティをやるしかないのか。やるかやらないかで何に対して集客するかが変わってくる。ウェブサイトを宣伝するのか作家個人に焦点を絞るのか。あるいはコミュニティではないけれどコミュニティ的な要素を持ち込むとか。一時期のはてなのように複層的な言及/被言及の場をつくる。だとすればコメント欄は必須かもしれない。書いて読まれる力関係は一方的にしたいのでこれも気が進まない。複層的なコミュニティをつくるのであれば旧筆名時代の失敗はもしかしたら失敗ではなかったのかもしれない。おそらく契約の関係だろうが出版社が及び腰だったため当時はコンテンツの幅が限られた。そのため客層も関連付けもいま以上に劣悪だった。ひどい客層と紐付けられたため一からやり直さざるを得なかったが、いまとなっては正しい判断だったかわからない。悪評も知名度や被言及のうちではあるからだ。コミュニティ運営の肝は本質的には差別にあり、それがコミュニティをやりたくない最大の理由だ。選ばれし者とそうでない「その他大勢」にいかに大きな格差をつくるか。その奈落が深ければ深いほど欲望のエネルギーが生じ、 Amazon という装置がその力を換金する。だから人格OverDrive をコミュニティに発展させるのであれば現状の寄稿者を神格化してその他大勢から搾取する構図をつくらねばならない。いかにも悪魔的な発想に思われるかもしれないが、成功したウェブサービスなら必ず巧みに意図し実践していることだ。その搾取構造は中央集権的に運営されねばならない。よその支配から逃れて自分が独裁者になるのはどうなのか。ただこの点については「寄稿者の魅力を最大限にひきだす」という目的さえ実現できれば(そのために独善性を完璧にコントロールできれば)手段は正当化され得ると信じる。創作も出版も実のところ本質的にはそういう暴力だったりする。とはいえ搾取されるためだけに「その他大勢」が自発的に集まってくるかといえば、少なくとも人格OverDrive にはあり得ない。主催者のわたしが何者でもない無価値な人間だからだ。 note にそれができたのは最初から評価経済の換金装置として立ち現れたからだ。そこには最初から成功者がいた。だれでも登録できるようになった時点で、叶わぬ夢を見させるための餌はもうすでに有象無象の鼻先にぶら下げられていた。そういうことは人格OverDrive にはできない。やれるとしたらまずわたしが評価経済において成功することが必要で、そんなことはわたしがわたしである以上あり得ない。そのため堂々巡りとなる。かといって何もせずに済ませるわけにもいかない。そろそろ何か動くべきときだ。人格OverDrive でもっとも PV を集める人気作家が、その評価の高さを実感していないらしいツイートをしているし、潜在的な顧客はもっとも多いはずの、注目されるべき才能は小説を書くことそのものに関心が薄れているかに(あるいは寄稿先としての人格OverDrive に関心を失ったかに)見受けられる。前者の才能に対しては、できれば年末にでも単行本を出したいし、後者に対しては連載作を長編化して文藝賞に応募してもらいたいと思っている。ほかの寄稿者に対してもそれぞれに「このように利用されたい」というイメージが具体的かつ明確にある(それはもちろん寄稿者の要望によって変化し得る)。何者でもない素人ながらにそういう出版エージェント的な、あるいは踏み台としての役割を夢見ていて、原稿を託してもいいと思えるくらいのメリットを何かしら提示することをいま、迫られていると感じている。
2020.
10.11Sun
『D.I.Y.出版日誌』の次にはこれを読め!
コメントを残す