イシュマエル・ノヴォーク

イシュマエル・ノヴォーク短編集

第4話: ブローティガンの隣人

イシュマエル・ノヴォーク書いた人: イシュマエル・ノヴォーク, 投稿日時: 2020.10.10

 ソファの上でうたた寝をしていたアーバイン・マッカムスは目覚めるなり、すっかり泡が消えたビールの残りを飲み干した。つけっぱなしのテレビ、ブラウン管の中では何度目の再放送か権利者ですら定かでないメロドラマが映し出されている。
 マッカムスは弛んだ腹を掻きながら立ち上がると放置して三日目、異臭を放っている台所を横目に便所で小便をした。水洗式便所が歯切れ良い声で唸り、ビールと同じ色の小便が消えた。下着とジーンズを一緒に上げてベルトを締めながらトイレから出た。
 チャイムがわりの打ち金が叩かれていることに気付いたマッカムスは狭くて隅に縮れた埃が溜まった廊下を歩いてドアを開けた。スラックスに黒のタートルネック、首から垂れ下がったカメラ。内気なのに頑固そうな青年が立っていた。青年が
「突然、すみません。お話を聞きたくて来たんです」
 マッカムスは「休みの日に立ち話させるな」と言って顎を左右に振った。青年は戸惑い、それから控え目な声で「失礼します」と言って入って来た。

 ソファに深く腰掛けたマッカムスが「何か飲むか?」と尋ねると、青年は首を横に振った。青年は床に散らばった電気料金の督促状や、マッカムスが元妻への慰謝料を支払った銀行送金の控え、宅配ピザの割引券、枯れて萎んだサボテン、異臭を放つ台所を見た。欠伸を噛み殺したマッカムスが「それで、何の用だ? おれはくだらないものをトラックに放り込むだけの男だ。お前みたいなお行儀のいい若造が聞いて楽しい話なんて一つもない」
 青年が口を開く。
「セオドア・シーハンです。若造じゃありません。大学でリチャード・ブローティガンを研究しています。彼は素晴らしい作家ですからね。比喩が突拍子もないことや、負け犬の物語であると評するのは愚かなことでしょう」
 シーハンは曇った窓ガラスの外に映る一軒家を見た。マッカムスは溜息をついて
「若い奴は自分の人生を楽しんだほうがいい。他人の人生に興味を持つのは、もっと後でいい」
「あなたは彼と仲が良かった。違いますか?」
 マッカムスは下腹を掻き、手をヒラつかせると「かもな。でも、もう何年も前のことだ」
「このあたりで彼と親しく付き合っていたのは、あなただけだと聞きました。彼と何を話しましたか?」
「警官みたいな物言いだ。尋問か?」
「質問です」
 ブラウン管からはビキニ姿のブロンド娘たちが我先にと走って男性化粧品の瓶に抱き着く。長い脚がクローズアップされ、円を描くように移動したカメラはブロンド娘の腰にある二つの点のような窪みに移動する。マッカムスが「忘れたよ」
「それは言いたくないという意味ですか?」
「お前は喋ったことの全部を覚えているか?」
「覚えておきたいと思ったことなら」
 マッカムスは人差し指でこめかみをなぞると「そういうことだよ」と言った。シーハンは首から垂れ下がるカメラのベルトを撫でながら「残念です」と言って立ち上がった。シーハンは歩き出し、廊下を歩いてドアを閉める音が聞こえた。

 昼のニュースがカリフォルニアの天気を淡々と伝えていく。BGMはウェザー・リポートの『ミスター・ゴーン』ジャコ・パストリアスが刻む不穏なスウィング・ビートは執拗に繰り返され、和音の構成を毎回、異なるものに変化させることを許容する。ジョー・ザヴィヌルの明るい三和音はモードに隠されているが、これを読み解くことは容易なことではない。

 テレビが消える。静寂の中をマッカムスの溜息が通り過ぎる。マッカムスはソファの間に挟まった『アメリカの鱒釣り』をとり出して皺が寄ったページをめくる。ソファに深く腰掛けたマッカムスが脂肪で冷たくなった身体を揺さぶり、隣に座るブローティガンがテレビを観ていた日と同じように。

 不倫の末に家を出て行った元妻に慰謝料を支払ったのは、元妻の不倫相手である辣腕弁護士によって家が差し押さえられそうになったから。家を失えば、マッカムスは文字通り一切合財、すべてを失うことになる。すべての要求をのんだマッカムスが守ったものは平べったい一軒家と思い出。自尊心。あるいは?


『ロクス・ソルス』という同人小説サークルで活動しています。それから、ジャズピアノの演奏活動をしています。気が向くと絵を描いたりします。
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