杜 昌彦

D.I.Y.出版日誌

連載第282回: 補正できない

杜 昌彦書いた人: 杜 昌彦, タグ:
2020.
10.09Fri

補正できない

旅行でわたしの街を訪れた方に逢ってもらった。こんなに一方的にしゃべる人間だったのかと自分でもびっくりした。あまりに昂奮してしゃべり倒したので帽子を忘れて取りに戻るほどだった。これ名刺ですと自著を押しつけたのだけれど、つまらないものですが、と口走ってしまってから、この慣用句がこれほどぴったりくる例はほかにないなと思った。人間性はわりと単純なしくみで再現できるのではないか、と熱弁をふるったのだけれど(表層の「人間らしさ」のほかにもうひとつ、その背後に走る何か、の両方がないと再現できないのではないか、的な意見が小説のプロットとバックストーリーの関係みたいでおもしろかった、もうちょっとそこ掘り下げて訊いとけばよかった)、よく考えたらわたしは生物学上の定義では人間であるにもかかわらず、あの店内では人間のふるまいとして常軌を逸していたにちがいなく、社会的に人間とは見なされない状態だったのではないかという気がするので、やっぱりそう簡単に再現できるものでもないのかなと思ったりした。AIで手塚や星新一やJ・K・ローリングを模倣したと称するコンテンツは不気味の谷レベルというか、「人間のように見えるけれども何かがおかしい」という、ちょうど統合失調症のひとと話すときに似た感触を受けるのだけれど、そのことと、実在する生身の人間であり、一応は人格障害でも精神病でもないと診断されているわたしが社会的に人間として成立していないこと、父や著名な政治家のように明らかにおかしいにもかかわらず、好ましい人間として社会的に通用してしまう人物が実在することのあいだには、なんらかの関係があるような気がする。この二十年ずっと考えているのは、人間が人間として愛されるのはあくまでゲーム的な技術で、機械によってより効率よく再現させ得るのではないかということと、一方でわたしのような人間は実際に人間であるがゆえに何か虫のようにきらわれるのではないか、生身の人間だからかえって社会的に機能しないのではないか、ということだ。人間は機械に肩代わりさせることによってできることの幅を広げてきた。飛べないから飛行機を、長距離をはやく移動することができないから車を発明した。おなじように、人間であるがゆえに人間扱いされない人間が、あたかも人間であるかのように愛されるための手段を、機械によって手に入れることはできるはずだ。小説なんか書いている人間のなかにはわたしのように、そうした社会的な技術において欠陥があるがゆえにうまく商品化できない人間がいると思う。きょう話して知ったのは、わたしの文章があたかもプロの出版社や編集者を敵視しているかのような印象を読者に与えるということだ。書いている生身のわたしにはまったくそんな気持がなかったけれど、読んだひとにおいて結ばれた意味は実際にそのようなものだった。そういった愚かしいふるまいの積み重ねで社会的に機能しなくなり、人間として扱われなくなる。それを機械的に補正する手段があれば、あたかも人間であるかのように受け入れられ、「このひとの商品を買いたい」と思わせ得るのではないか。そういうツールがあればそれは金になるはずだ。あるいはそうしたツールで社会的に受け入れやすくした才能は、それがなければ得られなかった商品価値を獲得するはずだ。そうした能力は現代社会で生きていくうえで必須だし、にもかかわらず持ち合わせているのはごく限られた一部の個人や企業でしかない。その落差を温存する、あるいは拡大することで現在の多くの企業(noteとか)は利益をあげているのだけれど、逆に手軽に縮める、あるいは縮めたように見せかけることも金になり得るはずだ。格差を広げるほうが金になるから、広げる方向だけで発展しているのだろうとは思う。でも限られた才能から金をひりださせようとするよりは、個々は少額にしかなり得なくても、金を生む余地のある才能が増えたほうが商売の機会は増えるはずだし、そのほうがおもしろいとわたしは思う。


(もり まさひこ、1975年6月18日 -)著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、藤井太洋氏、十市社氏らによる指導を受けた『悪魔とドライヴ』が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。最新作は『ぼっちの帝国』。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。
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