最近よく 『週刊のび太』 を思い出す。 詳しくは Google 検索していただきたいが 「身につまされる」 どころの話ではない。 読者には一目瞭然、 へたくそである作品が、 著者である発行人の目には、 ほかの掲載作と同様の傑作に見えている。 のび太の自己愛による歪んだ認知が笑いを誘うエピソードである。 ここ三ヶ月のアクセス履歴を確かめた。 もっとも読まれた記事は柳楽先生の第二回だ。 だんとつだ。 第一回がそれほどでないのは先生ご自身が共有されたのがなぜかサイトトップの URL だったからである。 次に閲覧されているのは、 うへさんの記事一覧だ。 記事単位でもっとも閲覧されているのは諸屋さん。 ついでイシュマエル氏だ。 うへさんはとにかくどの記事もよく読まれている。 若林さんも新章が公開されるたびに大きな反響がある。 投稿頻度が高ければさらに読まれていたろう。 戸田さんの最後の投稿は一年前で、 それ以前の記事は単行本化されたので商品紹介ページにリダイレクトしてある。 閲覧数トップに顔を出さないのは単純にそれだけが理由で、 連載されていた当時は柳楽先生に匹敵するほど読まれていた。 そこで 『大宇宙の大怪魔』 ならぬ 『GONZO』 である。 順位をかなり下のほうまで執拗に見ていかなければ出てこない。 わたしが書くものの読者はいいとこ六人で、 内訳はそのときどきで移り変わる。 四年前は悪意でストーキングする人間が大半だった。 いまはおそらく、 うへさんと諸屋さんと戸田さんが施しのような親切心で閲覧してくれている。 残りの三人もきっと知り合いだ。 単行本の読者はもうちょっと多いけれど、 それも何度か広告に金を投じたからにすぎない。 ソーシャルメディアでもブログでも、 だれにも共有されないのがその証拠だ。 普通ならどんな無能のゴミでも星を散りばめたレビューが複数つくものだがそれもない。 筆名を変える前は星ひとつの、 著者の人格否定をしたいがために実際には読まずにあたかも読んだかのように貶めるレビューがついた。 そんなことになるくらいならレビューなどしていただかなくて結構だ。 その頃に面倒くさい絡まれ方をされがちだったので日記はむしろ客を追い払う書き方をしている。 自分だけわかればいという書き方だ。 小説はそうではない。 言葉と物語が好きなら楽しめるように書いているつもりだ。 なぜ読まれない。 これだけ努力してどうしてだれからも評価されない。 答えは読者の声にある。 耳を傾けてみようではないか。
「すばらしい雑誌だ、 のび太のまんががなければもっとすばらしい。」
「これからも買いたいとおもう。 ただしのび太の連載をやめれば。」
「のび太のまんがをとりはずせるようにしてくれ。」
⋯⋯わかったよ、 わかりましたよ。 歪んだ認知にありもしない価値が見えているだけだ。 牡丹灯籠の映画のように骸骨を抱いているのだ。 助けてくれる坊さんはいない。 『GONZO』 は確かに明らかな失敗作である。 『セバスチャン・ナイトの真実の生涯』 に出てくるちょっとしたギャグを全編にわたってやり倒しました、 というアクション小説になる予定で、 『ぼっちの帝国』 に較べるとくそだ。 ゴミ以下だ。 要するに才能がないのだ。 二十代で書いたものでは 『Pの刺激』 がいちばんましだ。 ホラ大と幻冬舎で最終、 乱歩賞で二次選考止まりだった。 わたしは林真理子の本を読んだことがないのに、 林真理子はわたしの本を読んだことがある、 と考えると少し愉快になるが、 たぶん実際は読んでいまい (荒俣宏さんは読んでくれた)。 三十代は鬱がひどすぎて 『悪魔とドライヴ』 しか書けなかった。 高校教師が女子生徒に強姦されて自殺する話で、 宣伝をがんばったのでいちばん金になった。 いま調べたら 89,336 円を稼いでいた。 ペドフィリアが何か勘違いして喜んだのだろう。 いま思えばゴミとしてはましな部類、 といった出来だ。 『ぼっちの帝国』 が四十代の最高傑作、 ということになるが全生涯でも最高傑作ということになりそうな気がする。 いや、 これはひどいな。 28,389 円しか稼いでいない。 完全に広告費のほうが高くついている。 まじか。 これはがっかりだ。 『Pの刺激』 の 34,741 円よりひどい。 前年のゴミ 『逆さの月』 19,603 円と一万しか違わない。 出来でいえば 『悪魔とドライヴ』 の三十倍は稼いでもいいのに。 ああ、 それでやる気をなくしたのか。 思い出した。 閲覧数にせよ単行本の稼ぎにせよ、 かくも数値で価値のなさが裏づけられ、 無能が露呈しては己をごまかしようがない。 これ以上恥を晒してどうなるのだ。 『GONZO』 の連載はしれっと削除して、 はじめから存在しなかったことにしたほうがよいかもしれない。 実際、 人格 OverDrive は気味の悪いほど 『週刊のび太』 に酷似している。 さらにひどいといっていい。 寄稿者はいずれも AI による模倣などではなく、 独創的な生身の天才だ。 そしてわたしは十歳の小学生ではなく四十五歳の中年なのである。 しかし四十五歳の、 のび太にさえなれなかったゴミ以下のくそ中年は、 わずか二号で廃刊にしたりはしない。 寄稿者の作品を読みたいからだ。 わたしと同じような趣味の読者がいると信じるし、 わたしがいいと信じる作品は書かれるべきだと信じるからだ。 傑作を世に広めたいと願うからだ。 一方、 わたしの書くものをそのように思ってくれるひとはいない。 わたしはだれからも愛されたことがない。 生まれてこの方いまだかつて一度たりとも好意的に評価されたことがない。 価値が、 ないからだ。 そう結論すると何やら自然と頬が濡れるのである。