杜 昌彦

D.I.Y.出版日誌

連載第278回: 絆なんて要らない

杜 昌彦書いた人: 杜 昌彦, タグ:
2020.
09.27Sun

絆なんて要らない

人格OverDriveはコミュニティなんかでは決してないし、絆もなければ忖度もない、馴れ合いなんか生じようのない場だ。編集者気どりの独善家であるわたしが独創的な才能を見つけ出してむりやり頼んで書いてもらっているにすぎない。だから寄稿者の才能にはわたしが全面的に責任を持つし、ひとりひとりがばらばらで何の利害関係もない以上、仲間内で褒め合うような気色悪いことも起こりようがない。いいものはいい、それだけだ。四年前にも同様の試みをした。しくじったのにはいくつかの理由がある。まず第一に、互助的な場ないしツールを用意して品質向上を実現つつブランド化する、というそのときの考えがだれにも理解されなかった。というよりむしろ理解されたがゆえかもしれない。京アニ放火事件の犯人のような、ゴミ以下のままチヤホヤされたがる怠惰で才能のないアマチュアが一定数いて、招いてもいないそいつらの猛烈な反感と憎しみを買ったのだ。次にセキュリティ上の問題。他人にいわれるがままに信用ならないアマチュアを招き入れたこととか、WordPressに無知で、マルチサイトを導入したりしたこととか、権限の種別や管理画面の制限方法を知らなかったこととか……。発想が根本的かつ全体的に、単品売りしかできなかったKU開始以前の状況を前提としていたし、モールの偏りを前提にするから望む客層に届かない、という事実にも当時は意識が至らなかった。何より中途半端に民主的であろうとしたことが主な原因のように思う。やばいやつは名指しで排除するなり、脅迫行為を公にさらすなり、もっと極端に独善的にふるまうべきだった。結果として厭がらせや脅迫行為は水面下でエスカレートし、参加者に危害が及びかねない事態となり、すべてを投げ出さざるを得なくなった。護ったつもりの参加者らの多くは、加害者や野次馬と一緒になってわたしを責めなじり、嘲笑うばかりだった。その連中はいまだに公然とわたしを名指しして嗤っている。定型化された浅薄な概念しか理解できない連中に、足をすくわれ引っ張られるのはどうにかならぬものか。その反省を活かして付き合う相手を変え、アマチュア臭を最初から排除し、システムを改良し独善的にふるまい、現状はうまく運用できている。ただこれで図に乗るとまた失敗するのは目に見えている。柳楽先生まで勧誘に成功した時点でおかしいのだ。どうしても書いてほしい鮮やかな才能がtwitterにひとりいるのだけれど、なんの接点もないのにいきなり話しかけても恐がられるだけなのはわかりきっているので、渋々ながら諦めざるを得ない。ここらでやめるのが賢い博打だろう……と自分にいい聞かせつつ強迫的に投稿を読みに赴くのだから、われながら未練がましい。しょうがねえだろ、天才の書くものを読みたがって何が悪い。こういう行為は一般にキモいネットストーキングと呼ばれるが作家(の言葉)に対してはある程度、正当化されると考えている。書き手の人格と切り分けて、あくまで作品として愛読するならね。オール・トゥモロウズ・パーティーズを用意したのはそのためでもある。四年前にもBuddyPressで試したが、要するに生きた作家の言葉を見せる舞台であり檻である。あなたがわたしの動向を追っていたとしても無理からぬことだ。読みたいんだろ? 気になっちゃうんだろ? 生まれつきの業であるから作家はいつだって、何もかも読まれるのを前提に書くものとわたしは理解している。そうでない作家がいるのか? ほかの人間になったことがないのでわからない。四年前の連中のように、人格や実人生と作品とを混同し、貶める目的でけまわしているのだとしたら迷惑だが、それは結局のところ、読み手の能力が低水準であることを示すものでしかない。そういう意味では読者の質を、四年前よりずっと改善できたと信じている。その読者は寄稿者のみなさんが連れてきた。あなたもそのひとりであることを願っている。というわけで質の高い客層に読まれたい天才は、問合せフォームATPから連絡ください。原稿料は出ません。


(もり まさひこ、1975年6月18日 -)著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、藤井太洋氏、十市社氏らによる指導を受けた『悪魔とドライヴ』が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。最新作は『ぼっちの帝国』。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。
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