イシュマエル・ノヴォーク

コロナの時代の愛

第2話: カウチ・ポテト

イシュマエル・ノヴォーク書いた人: イシュマエル・ノヴォーク, 投稿日時: 2020.12.05

 すべてが変わってしまった

 有機液晶パネルに映るイランの保健副大臣イラジ・ハリルチが苦しそうな顔で声明を出した
このウィルスは民主的で金持ちと貧乏人官僚と一般市民を差別しない
 この禍が人類の生息を脅かすに足るものだと大勢の人が感じたことだろう何節かは忘れてしまったけれどヨハネによる福音書を思い出すつまり

我に触れるな

 いつの間にかデスクは我が家に変わったあまりにも急なことだったのでデスクに置いていた観葉植物をそのまま置いてきてしまったきっと枯れているだろうアオイ科アオイ目サバンナの乾燥地帯で生まれたはずの彼をバブーと名付けたのは我ながら安直なことだと思うそれでもアフリカの諸言語やサン・テグジュベリと名付けるのは気が引けた次にオフィスのデスクに戻った時大きく成長したバブーの根がオフィス中を這い回るようなことになっていたらぼくはどうなるのだろう? 訴訟を起こされ損害賠償を言い渡されてCNNにインタビューを受けることになる? 
 そんなことはないそこまで暇じゃない
 暇を持て余すことが贅沢だということを多くの人が知った自宅で仕事をしてディスプレイ越しの会議で同僚がパンツを履かずにいても笑い飛ばす気力がないどうして家にいるのにこんなに疲れているのだろう? 家は心と身体を癒すものではなかったのだろうか? ノートパソコンに搭載されたカメラの前で友人たちとお喋りしながら甘ったるいチリ産ワインを飲んでも愉快だとは感じられない

我に触れるな
 
 多くの人が触れ合うことを避けている性衝動はハードコアポルノを観れば十分なのだろうか?
 アルベール・カミュやエドガー・アラン・ポーもしくはボッカチオがかつてのフレデリック・フォーサイスやスティーブン・キングのように売り上げを伸ばす時代とても奇妙だ
 チャンネルを変えると右派や左派のコラムニストたちがひょっとすると正義論や観念論に基づいて持論を述べていた多分彼らの著書の焼き回しだその中に一人禿げて太った男が座っていた男の顔には見覚えがある元テキサス州知事で俳優その前はレスラーだったジェシー・ベンチュラ彼のことを思い出すことはなかった普通の生活をしていて思い出す必要は何一つないのだからスクリーンの中の彼は鍛え上げられた身体を見せつけていた。 『バトルランナーあるいはプレデターどちらも脇役だけどそれでもカウボーイハットをかぶってガムを噛みながら大きな銃を振り回す姿は一つの時代を象徴するようなものがあった
チャンネルを映画チャンネルに変えるとリドリー・スコットのブレードランナーが放送されていたこの映画を観たのは去年のことだルドガー・ハウアーが亡くなったばかりの頃でその日は霧吹きのように細かな雨粒が窓ガラスを濡らしていた微小なホワイトノイズが木霊し家の前の舗装されていない砂利道を自動車が踏みしめタイヤの溝にはまった小石が遠心力で跳ねて車体にぶつかる哀れっぽい音が聞こえた隣に腰掛けていたレイチェルは不満げな顔をしていた
どうしてこんな古い映画を観るのか?
 彼女は表情で訴えていたがぼくは知らん顔を決め込んだぼくはブレードランナーをビデオショップで借りた借りたのはDVD銀色をした薄い円盤だというのにどうして今でもビデオショップと呼ぶのだろう? 今ビデオテープを家に持っている人は変わり者かガレージに置いたまま捨て忘れてしまったあるいは時代の変化に戸惑った末に変化を受け入れられず頑迷になってしまった人だけだ映画を観ながらレイチェルがぼくに話し掛ける

この人あの映画に出ていた俳優よね? 信じられない! 別人みたい
昔の映画だからね

なんでこの男はヌードルを四つも頼むの? 呆れられているじゃない?
君だってこの前ケーキを四つ注文しただろう? ぼくがよしたほうがいいって言ったのにさ

あの漢字なんて書いてあるのかしら?
さぁ?

ピラミッドみたいな建物お墓かしら?
多分ね

Cビームって何? 結局この人って人間なの? それとも……

 映画を観終えるとぼくたちの戦いがはじまった言い合いは一時間ほど続いたとはいえぼくが口を開いたのは最初の五分だけ残りはすべてレイチェルの一方的で偏った主張だったうんざりしたぼくはデッキからDVDをとり出し半透明のケースにしまうとビデオショップに歩いて出掛けた
ビデオショップは埃の臭いがする返却ごとにアルコール消毒され滅菌処理されたディスクにそんな臭いがするはずはないのにぼくはこれが記憶から生み出されたものであることを知っている家の近くにあった小さなビデオショップと同じ臭い隣にビワの木が植えられていて甘ったるいオレンジ色熟れて落ちた果実が踏まれて土と混ざる家に帰ると相変わらず霧吹きのように細かな雨粒が窓ガラスを濡らしていた

 思い出は消えてしまう雨の中の涙のように

 カウチから立ち上がり水で薄めた漂白剤をしみ込ませた雑巾でぼく以外が触るはずのないドアノブを拭き仕上げに窓ガラスについた結露を拭き取るそしてヒーターのスイッチを押す
 
 何事にも終わりがある今回だって……


『ロクス・ソルス』という同人小説サークルで活動しています。それから、ジャズピアノの演奏活動をしています。気が向くと絵を描いたりします。
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