うへ

大人って歯も上手く磨けない

連載第35回: 好色益荒男ぶり

うへ書いた人: うへ, 投稿日時: 2020.09.25

 7時間も話し込んだ。彼女は小説も映画もあまり見ないというのに、表現に富むし、私が話したことをほぼ正確にそのニュアンス通りに受け取った。時折、そうでない場合には、その伝えたかったことへのズレたピントを補正するための労力も惜しまなかったし、実際そうすることで、それはほぼ正確にピントが合った。
 なぜ私にこれほど関心を示すのだろうか。彼女は次から次へと質問を重ねた。それは、会話のための質問というより、純粋な興味からきているものであることは容易に見抜くことができた。
 光の加減か、その瞳はキラキラと輝いており、気を抜くといつまでも不躾に眺めていたくなるような、そんな目をしていた。
 話を訊いていくうち、彼女自身、本来は人と一定の距離を置くタイプであるらしいが、一風変わった人間には興味が湧く性質の持ち主のようだった。

「少し遅れるかも ちえり」焦った絵文字と共にそんなLINEが送られてきた。
 少々わかりづらい場所にある、私にとっては馴染みの喫茶店で待ち合わせたのだが、案の定彼女は道に迷ったようで、五分ほど遅れて現れた。
 私は面食らった。遅れたということへの焦りはありつつも、それを下手に卑下にする風でもなく、大人の余裕を忘れていない彼女の姿に。それでいて、詫びている誠意は、その態度から自然と伝わってきた。

 一瞬、私が遅れてしまったような錯覚に陥り、動悸が始まったような気がしてきたため、それと気付かれぬよう慌ててメニュー表を手に、何にしますか、と平静さを装って微笑みながら尋ねた。

 冷静にメニューを隈なく眺めたあと、彼女は数ある品種のなかから、エチオピアのコーヒーを選んだ。

「ふう、汗がすごくて」

 ふと彼女の額に視線を移すと、てかてかと汗ばんでいて、私はドキッとした。汗ばんだ額は、妙に艶めかしく、少しうねった前髪の産毛が額に貼り付いており、私はそれを舐めたいと思った。それを境に、襟元の開けた服から覗いていた、しっとりとした肌も目に飛び込んできた。
 会話を成立させながらも、私は時折彼女のそんな体のパーツをちらりと眺めやり、眺めていることを悟られないよう振る舞った。
 こんなふうに女性を見ることは滅多にない。というか、はじめてと言ってもいいかもしれない。それだけ普段私は相手の全体や細部を見て会話をすることがない。それが男性であれ女性であれ。
 それは相手に対するマナーのようなものでもあり、人間を物質のように見るのはいかがなものかという眼差しに対する己の矜持みたいなものであった。

 彼女に質問されるがままに、私が読書好きであること、なかでも小説が好きであること、その魅力を語り尽くすと、彼女は本屋に行きたがった。

――本屋の書棚の前に並んで立ちながら、おすすめの本を紹介していった。これもおすすめだよ、あれも面白いよ、と夢中になって喋っていると、ふいに目の前にギョッとする光景が飛び込んできた。

 彼女の着ている開襟シャツのボタンとボタンの隙間から、シックなブルーの下着が覗いていた。両手で本を開き、腕を曲げているその姿勢によって、ボタンとボタンの間隔がもともと広いせいで、見えてはいけないものが見えてしまっていた。それだけではない。見えてはいけないものの中にある見えてはいけないものまであと少しで見えそうな塩梅だった。そう、乳輪である。私は少し角度を変えた。

 今日は初対面である。いきなり下着が見えていますよという指摘をすることは、いくら変人好きの彼女とはいえ、面食らうだろうし、私とてその後が気まずい。また少し角度を変えた。
 私は彼女の左側に立っていたのだが、私のさらに左側におっさんが立っていたため、せめてその視線からは死守しようと思った。彼女はさらにいくつかの本に手を伸ばしては、本を抱え、無頓着に「これもおもしろそうだよ」なんて言っている。
 私は純粋に、他の男に見られたくないと思った。彼女の胸に手を伸ばすのはこの私だ、と思った。これは独占欲なのか。独占欲とはつまり、私は彼女のことを「好き」だと思い始めているのだろうか。また少し角度を変えた。

 たった数時間の間に、こんな捻くれたものの見方をしている私に興味を示し、熱心に質問を重ねてきた彼女。これだけ自分を肯定されれば、誰だって気持ちがよくなるのも当然だろう。私はまた角度を変える。
 とここで、なぜ角度を頻繁に変えるのか、と訝られた方もおられよう。白状しよう。そう、私は彼女の乳輪を盗み見ようとしていたのだ。
 誰かの視線から彼女を守る、これは「好き」という感情の芽生えか、などと体のいいことを考えながら、私はそれ以上熱心に、不誠実を働いていたのである。しかも角度を変えていたのは自分ばかりでなく、益荒猛男ますらたけおも然りであった。

 直感的に、彼女はきっと、次会ったときに告白をしても、すんなりとOKをくれるだろうと思った。それほど私に対する厚い好意を感じる。それほど私を信頼してくれているのが伝わってくる。

「体が目的ではない」と彼女には本心を語ったつもりだったが、実際に女性の裸というものを前にして、私は理性を自制できるとも思えない。
 それが継続できるのならいい。だが私は、一度や二度で飽きてしまうだろう。私にはそれが恐ろしい、恐ろしいのだ。

 本屋を後にして、彼女と別れた。それからしばらくして、互いに「今日は楽しかったね」という旨のやり取りをした。

 数日後。LINEが振動した。そこにはyumiという文字があった。
「来週の土曜ならいいですよ〜」
 私はさっそく会う手はずを整えにかかった。


趣味でしかものを書いたことのない、名無しの素人エッセイスト(自称)。 この度、どういうわけか当サイト「人格OverDrive」の主宰者である杜 昌彦氏に「掲載してみませんか」とお誘いいただき、こちらに寄稿することに。 29年間、苦しそうなこと、辛そうなことから逃亡している人生。フリーター。 寄稿するジャンルは妄想エッセイ。虚実交えた物語を書いていきたいと思います。
amazon