諸屋 超子

豚はいつ飛ぶ?

第9話

諸屋 超子書いた人: 諸屋 超子, 投稿日時: 2020.09.24

 正直に言おう。僕は女性が怖い。とても。それも幽霊とか、妖怪とかみたいに妖しげな怖さではない。もっと暴力的な感じ。台風とか、雷とか、津波とか。とにかく怖い。逃れ方も分からない。生命の危機を感じる。そんな風に怖い。
 だってそうじゃないか? 突然人の容姿に言及しても叱られない、人の気持ちを振り回せば褒め称えられる、挙句に知性を持たない方が魅力的とすら言う輩までいる。
 いや、違うんだよ。そんなことを正当だって言いたい訳じゃない。女性への敬意を僕は常に持っていたいと思っているし、そういう父権的見解で価値判断されるという現代女性の置かれた状況は是正されるべきだと思うし、僕は常に彼女たちに同情しているよ。
 しかし、いやだからこそ、彼女らにはある特権が与えられている。他の誰も持たない特権。
「不機嫌を表す際の理由不告知権」
 僕たち男はその特権を行使されまくって、女性がそばにいる限り、いついかなる時にも怯えて過ごすことになるんだ。
 僕は件の連絡先の書いた紙を、それはそれは大切にポケットにしまった。本当なら、紛失防止のために、財布のカード入れとか、定期入れの裏側とか、ピッタリくっついて落とさないような場所に入れたかったのだけれど、そんなことをしたら、僕の浮かれ具合を世界中に宣伝するようなものだから、さり気なさを装って、ジーンズの尻ポケットにしまった。
 それが災いして、僕はそれをうっかり落としていやしないか気になって仕方なくて、何度も確認のために尻が痒いふりをして、ヘアセットしている吉田さんの手を止める羽目になったのだけれど。
 会計に向かう前に眺めた、鏡の中の僕と丸山くんは、この世のものとは思えないほど滑稽だった。たまに近所を歩いていると、庭先に犬や猫の置物を置いて、それに首輪や前掛けをかけている家を見かける。僕ら二人は、あの置物くらい間が抜けていて、あの置物以上に誰にも欲しがられないだろうなって感じだった。さらに悪いのは、あの置物くらい遠目に本物風に見えるからこそ、近付いた時の醜悪さが際立った。
「素敵ですよ」
 コーヒー牛乳吉田さんは、自分の犯した罪に気付かないのか、もしくは責任を回避したいのか(実際、彼女が責任を問われれば、尽くせるだけの手は尽くしたと申し開いたかもしれない)笑顔で僕をおだてたりした。
 でも、丸山くんは隣でまんざらでもない様子で鏡に見入っているし、何より僕は見た目なんてどうだってよくなっていた。僕のすべては今、二枚の布を通して、薄ら湿り気を帯びながら右尻に貼り付いているのだ。きっと僕はその紙を持て余すだろう、実際送るべき言葉も、話しかけるべき用件も何も頭に浮かばない。否、浮かぶ言葉はどれもこれも、決して口に出すべきではない類のものばかりだ。
 しかし、よしとしよう。今は天国行きの特急券であるかもしれない紙がこの手に(実際には尻に)あるのだ。
 君だって知っているだろう? 嵐の前は凪だ。
 僕はそれから一週間、吉田さんに連絡しなかった。もちろん、店を出てすぐ、糞をするフリで公衆トイレに立ち寄って、右尻の紙を財布にしまい、帰宅後は、さらに財布から紙を取り出し、学生時代に使っていたアイドルの写真を挟み込んで使う下敷きに飾った。
 丸山くんはその週、なんと十三回も我が家を訪れ(つまり一日に複数回訪れる日があったのだ)しつこくメールを送るよう僕に説いた。僕はその度に必ず送ると約束したが、一度も送らなかった。
 もちろん、焦らしていたわけじゃない。そんな余裕、この僕には無いことくらい君にはわかっているだろう? そう、ただ価値が見出せなかったんだ。ずっと不戦敗でやり過ごしてきたのに、なぜ、ここにきてわざわざ実戦で敗北する必要がある? 傷を負う必要がある? それに、何より連絡さえしなければ、僕は勝者だ。女の子から連絡先を尋ねられし英雄なんだよ。
 すれ違えばあからさまに顔を歪め、職場ではヒソヒソと僕の新しい髪型を嘲笑う。そんな恐ろしい女性の中の一人が、なんと積極的に僕の連絡先を尋ねたんだ。充分じゃないか? これ以上何を望む?
 しかし、一週間後の夜中二十二時。僕の携帯電話が小さく震えた。間抜けな単音の『宙船』に連動して白いボディがネオンカラーに光る。
 吉田さんからのメールだった。


長崎市にある本のセレクトショップ『Book with Sofa Butterfly Effect』店主。読書について、本について、文学について。好きなことは「しゃべって、読んで、無駄な時間を過ごすこと」。本を通じて人と人が交わる場所をつくりたい。月2~4回、本を読んでいなくても参加できる読書愛好会を開催。編集室水平線ウェブサイトにて連作『コロナinストーリーズ』連載中。紹介記事:朝日新聞長崎経済新聞西日本新聞
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