2020.
09.23Wed

天使誘導体

愚か者は天使も踏むを怖れるところへ殺到する)」 という言葉を知っている人は多いしかしこれを書いた 18 世紀英国の詩人にとって今の時代に詩や小説を書く人もそれを批評する人もほぼ例外なく愚か者に該当するだろう文学作品もそれについての批評も書くのはとても難しい

 落とし穴に落ちて笑いを取る芸人でもあるまいに、 「天使も踏むを怖れるところにわざわざ飛びこむ愚か者たちの中に、 『インフィニット・ジェストの翻訳をはじめてしまった私自身を加えたい気分だ今回は翻訳にひどく苦労してなのに実質的に実りはゼロだったなんとも手強い箇所まさしく天使も踏むを怖れるところをお目にかけるまずは以下原文と仮の訳文をご覧いただこう

でも私たちその日の夜と次の日の午前中の分のヤクも手に入れなきゃならなくて次の日はクリスマスだったからヤクは事前に手に入れておかなきゃならないこれって終わりのない奮闘ヤクをキメたままでいるのは片手間じゃできない仕事みたいなものでいつだってクリスマスだからって休暇はない人生はそういうとこがマジで大変そんなことないよとか言う奴にハメられちゃだめ

[ ⋯ ] but we had to cop for that nite and tomorrow AM still which was XMas and had to cop in advance, its’a never ending strugle its’a full time job to stay straight and there is no vacation for XMas at anytime. Its’a fucking bitch of a life dont’let any body get over on you diffrent. IJ, 129

 これは、 『インフィニット・ジェストで最も重要な薬物依存の主題が凝縮されたセクションIJ, 128-135から一人称で語っているのはエミール・ミンティというゴロツキの男でとりあえず風貌や態度が比較的女性っぽいと思っておけばよいとプア・トニーそしてCと呼ばれる三人は全員ヘロイン中毒たちはどうやら男娼のようなことをしてちょっとした万引きやら恐喝やらをくりかえし手にした日銭は陽光を浴びた雪よりも早く溶けてヘロインの粉末に代わりそれを熱して溶かしたものを静脈に打ち込むそんなギリギリの日々

 仮訳文の問題点は一目瞭然元の英文ではアポストロフィ ’ の位置がおかしかったりスペルの間違いもある×strugle ⇒ 〇struggleあるいは×diffrent ⇒ 〇different”)。 しかし仮訳文は俗語・卑語が混じるとはいえ文法的には問題ない乱れて砕けた英語なら乱れて砕けた日本語をあてるべきだと私は思った

 ミンティの英語のスペル間違いは間違いではあるが発音にはほぼまったく影響がない。 “It’sでもIts’ でも発音は同じだし英語のネイティヴスピーカーにstruggleとは別の発音でstrugleと言ってみてくれと頼んでもそれこそ終わりのない奮闘になるだろう

 私は二つのルールを設定して翻訳した発音への影響はないが文字として書くと一目瞭然の間違いが日本語にもあるつまり、 「と書いたり、 「ルールと書いたり、 「発音発音えと書く間違いだもう一つは漢字の書き間違いワープロを使っているからいいものの、 「絶命絶命と書いたり、 「と書くような間違いは手書きの場合には往々にしてある耳で聞くと消えてしまうが目で見て読むとわかるこういったズレお利用しようと私わ思った

 すぐに自分の迂闊さに気がついたなるほど原文でIt’sではなくIts’ となっている個所を、 「人生そういうとこがマジで大変と訳すくらいは何でもないしかし、 「アポストロフィの間違いに、 “は⇒わ”、 “を⇒お”、 “へ⇒えを対応させるというルールに従うということはアポストロフィの間違いが無い文では)」 )」 )」 も使えないということだ場所の移動等を示すはともかく、 「は主語と目的語にがっちり絡みついた基本的な助詞なのでこれを禁じられるとそりゃあもうマジで大変」。

 こうなると、 “its’a full time job to stay straightヤクキメたままでいるの片手間じゃできない仕事みたいなものと訳すことはできない少なくともこののどちらかを使わずにすみしかも十分読めるくらい自然な日本語にしてから残りのororにしなければ⋯⋯ヤクでぶっ飛んだままでいるの片手間じゃできない仕事みたいなもの?   いや違うこのヤクはヘロインで気分が高揚するんじゃなくトローンと鎮静化するからぶっ飛んだはおかしい⋯⋯てゆうか、 “stay straightって薬物の影響が出ているままという意味か?   薬物を断ってクリーンなままでいるって意味にもなるんだけどそれじゃ意味が正反対だし⋯⋯いやいや、 “straight” 「薬物を摂取していないに比べると用例は少ないけど、 “get straightput oneself straightクスリを打って気分を落ち着けるという意味になるコカインや覚醒剤のようなアッパー系とは反対のダウナー系薬物であるヘロインならやっぱりstay straightな人間はしょっちゅうヤクを打ってばかりいると考えた方がいい⋯⋯てゆうか問題はそこじゃなくて⋯⋯

 ⋯⋯こうして暗中模索の末にできた訳文が日の目を見ることはないなぜなら訳文を読み返してもう一つの難点を発見したからだくりかえすがこのセクションで語っているエミール・ミンティはスペル間違いが多いそのため、 “heartを間違えたhartにはではなく」、 “casuallyのつもりのcusuallyには何気なくの代わりになくのように書くことで私は翻訳をすすめたしかしここにも似たような落とし穴があったというのはもちろんミンティもあらゆる単語の綴りを間違えているわけではないが正しく綴っている単語には日本語にするとそれなりに難しい漢字になるものもあるからだたとえば彼、 「図書館を意味するlibraryは正しく綴っているしかし、 「心臓何気なくを正しく書けない人間が、 「図書館と書けるのだろうか書けるはずがないとは言わないが私にはどうしてもそれが不自然に見えるこうして私は己で設定したルールで身動きがとれなくなる自縄自縛とはこのことだ

 ところで今回私がほんとうに書きたかったのはこういうとても具体的なことだけでなく少し抽象的なことだ自分で設定したルールという縄で自分を縛って自爆する?   こんなことが起きたのはそもそも翻訳がほとんど不可能なくらい難しいからだ当たり前だがあらゆる言語にはそれぞれのルールがある翻訳者は二つの異なったルールに同時に従わなければならない一方のルールでは良しとされても他方のルールで禁じられることが必ずあるそれはぎゅっと圧縮すると、 「私の命令に従うなという命令だ神様からそんな命令をされたらさしもの天使も二の足を踏むに違いないまして私は羽根など生えていない人間なのに

 私が小説を書いたり書こうとしている人たちをほぼ無条件で尊敬する理由がここにあるデヴィッド・フォスター・ウォレスのように読みはじめて数ページで天才だと確信してしまう作家など私の目にはほとんど天使みたいなものだ

 もしかすると小説だけが、 「どのように生きるべきかを教えてくれる何故なら、 (優れた小説家は自分が使っている言語のルールに従いながらもそのルールを必ず超えていくからだ異なった二つのルールに同時に従うあるいはそれ自体で矛盾した命令に逆らいつつ従うということはそういうことだそして小説など書いていようといまいと私たちはそんな板挟みから逃れられない

天使も踏むを怖れるところ実はいたるところにある板挟みのことだ。 『贈収賄の構造の W. M. リースマンによればいわゆる賄賂が行われるのは社会が矛盾した二つのルールに支配されているためだつまり一方では誰もが金では買えない価値を称賛するがにもかかわらず他方で金がものを言う。 『ハマータウンの野郎どものポール・ウィリスによれば学校でいわゆる不良少年たちが出現するのも学校が矛盾したルールを子供たちに教えているからだ試験で優秀な成績を収める優等生はごく一部だしごく一部でなければ順位付けのための試験の意味がなくなってしまうそれなのにまるで勉強すれば誰もが一番になれるかのように先生は生徒を励ましたり叱ったりするルールが厳しすぎるというより二つ以上のルールを同時に課されて何をしようと罰される可能性が消えないから人生は難しい。 「そんなことないよとか言う奴にハメられちゃだめ」。

 作家は自分の作品が売れてほしいとは思うけどだからって売れるために書くわけじゃないそれは子供が失敗しても親は温かく見守るけれどだからって失敗してほしいと思っているわけじゃないのと同じだ——保坂和志がどこかでそんなことを書いていた板挟みにならず生きていける人などいないからあらゆる板挟みを言葉として引き受けて書く小説家は人間ではなく天使になろうとしている有機化学ではある物質 X を作り出す前の段階の物質のことをその X の誘導体と呼ぶ作家とは天使誘導体である

 以前何も考えず英語の辞書の例文をつらつらと読んでは書き写していたことがあったその時面白い例文を見つけた試しに、 “His wings are sprouting.をどう訳すか考えてほしい直訳すれば、 「彼の羽根が生えてきている」。 つまり、 「彼は天使になりかけている彼は天使みたいに素晴らしい人だ」。 私は天使みたいに素晴らしい人になりたいとは全く思わないが、 「天使も踏むを怖れるところあたかも羽根が生えるのを待ちきれないかのように踏み込んでいく書き手を応援しているしどれほど困難でもデヴィッド・フォスター・ウォレスインフィニット・ジェストの翻訳を続けようと思う

第二回 了


英米文学研究者。『小説トリッパー』2022年夏号「今もかならず、どこかに春が」でデビュー。関西在住の文学研究者・大学教員。