うへ

大人って歯も上手く磨けない

連載第32回: ナマンダブナマンダブ

うへ書いた人: うへ, 投稿日時: 2020.09.14

 経験した者にしかわからない地獄というのはたしかにある。

 私は22を過ぎたあたりから長年、首が回らないことに悩まされ続けてきた。
 これは慣用句でも例えでも、まして借金の話でもない。文字通り、首が回らなかったのだ。
 少しでも緊張すると、首周りの筋肉が硬化し、上下左右へ動かす自由が効かなくなり、次第にプルプルと首が震えだし、それが全身へ伝播するという奇病を患ったのだ。
 外科や心療内科を訪ね歩いても、首に異常はないといい、心のほうも「運動不足」とあしらわれ、緊張を和らげる薬を処方されて終わった。

 私はあのときの気持ちを(いまはぼんやりとしか覚えていないが)、渦中にいたほんの一年ほど前までは、つねに「いつ治るのか」という希望のような縋る気持ちと「いつが死にどきだろうか」という暗い気持ちの両方を抱えていた。

 たかが首が回らないくらいで、と人は言うだろう。
 だが、本人が抗えぬ身体症状というものは、考えられる以上に当人にとっては深刻な問題で、症状があるばかりに、常に他人に恐れや警戒心を抱かせてしまう。
 
 あなたが今日職場や学校へ行ったとき、買い物に行ったとき、奇怪な言動を見たり聞いたりしなかっただろうか。そのときあなたはどんな反応を示しただろうか。眉をひそめただろうか、怪訝な顔をしただろうか、その場から離れただろうか。
 なにもそうした行動を責めようというつもりはない。私とて、自分がこのような人間でなかったなら、多くの人がするのと同じように、ごく自然に、深く考えもせず、そのような行動をとっていたと思う。
 つまり言いたいのは、あなたが歯牙にもかけない、3分後には忘れてしまう出来事であっても、当事者にとってはそうではない場合もあるということだ。

 レジで支払いをするとき、首を動かさずに体の震えを抑えながらお釣りを受け取るときの店員の怪訝そうな顔。
 新人研修のための指導を隣で行うときに、私の挙動不審が伝わり、体をこわばらせていた後輩の女の子。
 「動きが気持ち悪い」と、笑いながら飲み屋のゴッドフィンガーアロハ野郎(「下田屋の呪い」参照)に指摘されたこと。

 これだけ本人が深刻に思い悩んでいるというのに、内側にも外側にも異常は見当たらないという。病名はありませんという。
 そんな馬鹿な。たしかにこれだけ苦しい思いをしているというのに、これは気の弱さでも、仮病でもない。
 どれだけ現代の科学やテクノロジーが進歩した時代であるとはいえ、これほどの苦しみに病名も付かず、ストレスや運動不足で片付けられてしまう。
 あってないような診断を下された私は、科学で証明されていないことなど、こんな時代にあっても、いくらでもあるのだろうな、という確信を、呪うような気持ちで持った。

 誰の同情も引けない悩み。話しても、いや、話そうとしても伝わらない重い苦しみ。

 ただでさえ人とのコミュニケーションに難のあった私は、精神だけでなく、身体までもがそれを拒絶するようになり、ますます人と関わらなくていい職を選び、休日は家に引きこもる日々へと次第に落ちていった。

 もう治療など不可能なのだろうと思われ、30で治らなければ死のうと思っていた、28歳と6カ月。その頃に出会った運命的なカウンセリング療法と、その先生によって、症状は少しずつ少しずつ回復していき、いまではほとんど、症状に悩まされることはなくなった。

 だから私は、正社員になるのを避けてきた。融通の利くアルバイトで、人との関わり合いの少ない場所を転々とし、逃げ延びてきた。それは私なりに精一杯の生存戦略であった。このような顛末を、いったい面接官になんと伝えればよいのか。

 人間は複雑だ。それなのに面接では端的に話す能力を求められる。
 馬鹿正直に話すべきだろうか。いや、書類の時点で「アルバイト経歴しかない人間」として落とされる私には、そのチャンスさえない。

 だがさほど落ち込んでもいない。地獄の七年間はたしかに辛かった。人生の全盛期を棒に振ってきた。過去の友人関係はすべて清算してきたし、世間で起きていることにもまるで無関心だったおかげで、流行りの曲も芸能人も知らない。合コンに参加したこともなければ、ドライブデートも知らない。知り合いの結婚式に参加したこともなければ、お酒の嗜み方もギャンブルもタバコも知らない。国内はおろか、海外旅行などしたことがない。空白の七年間。

 それでも気持ちは晴れやかだ。
 結局、人生はなるようにしかならないのだな、といまは思う。棒に振ったなりに、下の棒は振ってきた。二十代で満たせる欲望が、密室でチョメチョメ、ぐらいしか選べなかったのだ。
 それはそれで、必要な経験だったのかもしれない。ちーん


趣味でしかものを書いたことのない、名無しの素人エッセイスト(自称)。 この度、どういうわけか当サイト「人格OverDrive」の主宰者である杜 昌彦氏に「掲載してみませんか」とお誘いいただき、こちらに寄稿することに。 29年間、苦しそうなこと、辛そうなことから逃亡している人生。フリーター。 寄稿するジャンルは妄想エッセイ。虚実交えた物語を書いていきたいと思います。
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