柳楽 馨

デヴィッド・フォスター・ウォレス『インフィニット・ジェスト』翻訳日誌

連載第1回: ためらいがちに脱獄を

アバター画像書いた人: 柳楽 馨
2020.
09.14Mon

ためらいがちに脱獄を

メリカの作家デヴィッド・フォスター・ウォレスは私がその名前を耳にしたとき既に死者だった彼の大長編インフィニット・ジェスト』 (Infinite Jest, 1996を翻訳するにあたり考えた事柄を書いていこうと思うこの人格OverDriveでの連載を杜昌彦氏から打診された当初私はかなり消極的でしかし結局は引き受けた

 ここはひとつ試験問題風に翻訳中のインフィニット・ジェストの一節をあげて私が直面した問題を紹介しよう

 問1 以下の文章の英語部分の訳語を書け。 (配点:無限小/制限時間:無限大

それぞれ 12 歳11 歳10 歳のピーター・ビークとエヴァン・インガソルとケント・ブロットが並んだロッカーの前の白っぽい木製ベンチに座っていてタオルを巻き肘を膝がしらにつけ話には加わらずにいるそれはゾルタン・チクセントミハイも同じで彼は 16 歳だが英語はほとんどしゃべらない今年からの新顔で人種的には曖昧なイドリス・アルスラニアンは 14 歳で、 “all feet and teeth ロッカールームのドアのすぐ外に影のように潜んでいて時折その非白人的な鼻先を突きだしては引っ込めひどく内気だ。 (IJ, 97-98

 舞台はボストンにあるとされる架空のテニス・アカデミーこれはプロのテニス選手を養成する小中高一貫の全寮制学校のようなものでありあの日本人プロテニス選手 K.N. もこうした学校に通っていたそうだ主人公である 18 歳の少年ハル・インカンデンザが通うエンフィールド・テニス・アカデミーETAでは今日も壮絶な練習を終えて少年たちがシャワーを浴びる問題文ではいわゆる三人称の語り手が半ばハルの視点を借りてそんな生徒たちを外側から見て語っている

 私が面食らったのはall feet and teethという表現だネット上のスラング辞典等でもこんな表現は見つからず、 “foot” (tooth” (はどちらも不規則な複数形になる名詞の代表例! といった英語初心者向けのサイトばかりだこのイドリス少年について描写・説明している一節の意味は一体何か?すべて脚と歯脚と歯しかない

 なるほど肌の色に関係なく暗がりの中にいる人間がニタリと笑って歯を見せるとその白い歯だけが浮き上がって見えることはあるだろうトマス・ピンチョン重力の虹にもそういった描写があるしかし脚の方は? わからない全くわからない私の脳裏には歯を見せて笑う口元からにょきっと二本足が生えた妖怪の姿が浮かんだがこの妖怪ですら正確には唇があるので、 “all feet and teethなイドリスの正体が私には全くつかめず仕方ないので昼食に出かけた

 コンビニに向かう途上で私はあぁ!と叫ぶ答えは最初から私の目の前にあった明らかにETA には英語圏以外からの留学生もいるそしてテニスの実力が重視されるため英語の語学力は入学・編入にあたっての重要な要件ではないようだ苗字からすると東欧の家系と思われるゾルタン・チクセントミハイは英語がほとんどしゃべれないと直前に書いてあるではないか妖怪じみた姿になるところだったイドリスも同じだろうイドリスは英語が苦手で、 「に関する単数形/複数形の使い分けができないために単数形foot / toothであるべきところでいつも複数形のfeet / teethを使ってしまうつまり、 “all feet and teethというわけだ!

 この解答にウキウキしていた私は即座に鼻っ柱を折られたわずか数頁先にこう書いてある。 「イドリス・アルスラニアンの靴と前歯が束の間入り口のところの湯気の中に現れてそして引き下がる」 (IJ 101)。 何だこれはということはやっぱりall feet and teeth複数形にする時不規則変化をする単語のことではなく文字通りイドリスの両足や歯のことだったのか⋯⋯

 拍子抜けだがこういうことはいくらでもある。 『インフィニット・ジェスト翻訳についての連載を打診された時私が消極的だった理由もお分かりいただけるだろう小説とはその全体を通じてある種の効果を与えるものなので全体を翻訳しない限りこの作品について何か書くことはできないと思ったからだ

 だがそれでも連載を引き受けたのは結局全体を読んだところでわからないものは分からないだろうと確信しているせいでもあるなにより、 「イドリス・アルスラニアンの靴と前歯が束の間入り口のところの湯気の中に現れてそして引き下がるという状況を私たちは映像として思い浮かべられるだろうか? 靴を履いている両脚の太腿や脛は何故見えていないのか? 何故歯の周りの唇や顔の鼻や目が描かれないのか?

 私は案外自分が閃いた解答が間違っていないのではないかと思いはじめた主人公であるハルはテニスの実力もさることながらOED (『オクスフォード英語辞典』) を丸々暗記しているらしい言葉の天才であり他人の言葉の間違いには敏感であるハルには世界が言葉として見えており言葉のフィルターが常人よりもはるかに強い。 “feet / teethに関する間違いをする人間としてイドリスを認識したハルにはイドリスの脚と歯だけが特に視界に飛び込んでくるのではないかハル・インカンデンザは言葉の中に閉じこめられた人間ではないのか

 ところですでに死んだ作家の作品を訳す私も言葉の囚人である私が抱く疑問の答えを知っていそうな男はすでにこの世にないだが本当のことを言えば作者が死んでいようがいまいが小説の翻訳やそれを単に読むことですら本来はそんな牢獄に似た体験なのだこの連載は不可能な脱獄に向けた試行錯誤となる


英米文学研究者。『小説トリッパー』2022年夏号「今もかならず、どこかに春が」でデビュー。関西在住の文学研究者・大学教員。