うへ

大人って歯も上手く磨けない

連載第31回: 生きるということについて

うへ書いた人: うへ, 投稿日時: 2020.09.11

 ディストピア小説を読んでいると安心感のようなものを覚える。その理由は複数考えられるが、今回『虐殺器官』を読んでいて唐突に発見したことがある。
 それは主役である人物が初めから悪の(大義こそ正義ではあるが)手先である、ということだ。
 それも、「大衆よりは内情をわかっている人物」である設定が多い。このことは私を大いに慰めていたようだ。

 つまりその現実は、主人公の心の中では既に折り合いのついていることであり、もはやそれが善か悪かなどという幼稚な懊悩はしない。
 世界の標準が「それ」である以上、そのことに思い悩み、己の行動の善し悪しなどは考えない。考えられないのではなく、「考えない」のだ。

 それもまた気高い生き方かもしれない、と私は逃げ道を見つけた気がした。

 ディストピアの世界でなくとも、我々は電気を使い、食べ物を喰らい、仕事に従事し、スポンサーが垂れ流すニュースを鵜呑みにするだけで、悪事に加担していることになる。(と私は思っている)
 もはやこの文明社会は、何かを犠牲にすることによって回っているからだ。(無知・無意識であればあるほど)
 私はずっとその観念に悩まされてきた。私は悪になど決して染まらない。なるべくなら、嘘とも穢れとも無縁であり続けたいと願い、そのような行動をとっていた。つもりだった。  
 しかし結局それは認識の範囲の問題であり、白か黒か己の頭で判別ができるライン上の話でしかない。
 やむを得ず人を傷つけたこと、結果的に人を傷つけたことが、必ずしも「悪」なのかという判断を、我々人間は下すことができないように、それは神のみぞ知ることなのだ。
 ほんとうに清らかでありたいと思うなら、もはや「死ぬ」しかない。
 だが卑怯な私は死ぬことを選べない。そのことがまた、私を苦しめた。

 だが、今回の思いがけない発見は、私にとって救いとなった。
 ディストピア小説を生きる彼らがその国の悪事に加担していることは、そのまま現実世界を生きる私の慰めとなった。
 生きるということは、罪を背負うこと。それがデフォルトなのだ。
 悪事を引き受けることもまた、生きるということに責任を持つことになるのかもしれない、と、私はここで思考の触手を伸ばすのをやめた。


趣味でしかものを書いたことのない、名無しの素人エッセイスト(自称)。 この度、どういうわけか当サイト「人格OverDrive」の主宰者である杜 昌彦氏に「掲載してみませんか」とお誘いいただき、こちらに寄稿することに。 29年間、苦しそうなこと、辛そうなことから逃亡している人生。フリーター。 寄稿するジャンルは妄想エッセイ。虚実交えた物語を書いていきたいと思います。
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