うへ

大人って歯も上手く磨けない

連載第29回: 下田屋の呪い

うへ書いた人: うへ, 投稿日時: 2020.09.05

 「私は未来にも、過去にも、現在にも絶望しています」そんないかにも憂鬱そうな表情を作って歩いていた仕事終わり。いつもならバスで帰るのだが、この日は歩いて帰りたい気分だった。
 今日職場で発した言葉は「おはようございます」「そうなんですね」「あっ」「どうぞ」本当にこれだけ。
 なんで「お疲れ様です」がないのかと聞かれれば、そういう職場だからだ。朝の挨拶も自分の気持ちの問題で、別にしなくてもいい。どうせ誰からも返ってはこないのだから。

 職場を出て15分ほど歩いたところで、前職の後輩にばったり出くわした。恰幅のいい体型に、黒フレームのメガネ。あのときはまだ大学四年生で、半年ぶりくらいに会った彼は既に貫禄のある事務職のおじさん、といった体で、スーツ姿が板につきすぎて、一瞬「こんなおっさん知り合いにいたか?」と訝ってしまった。
 「うへさんじゃないですか~!お久しぶりです~、元気してますか?はは、顔色悪いですよ?」
 一言余計だわ、と思いながらああ、元気元気と適当に相槌をうつ。べつに銀杏BOYSの峯田を敬愛する彼のことは決して嫌いというわけではないのだが、どこか調子のいいところがあり、やっぱり嫌いだ。
 「どうせ暇でしょ?軽く一杯飲み行きません?」
 だから一言余計だわ、と心でツッコミを入れながら、まあ、図星だし帰っても特段やることもないし、気も紛れていいだろう、と思い、誘いに乗ることにした。

 「いや~、何カ月ぶりっすかね~」
 「仕事には慣れたん?」
 「まあ、ぼちぼちですわ」
 「彼女はできたの?」
 「いや~、いきなりそれ聞きます?職場、おばはんしかいないんで」

 6つも歳が離れているのだからその必要はないのに、私は時々こうして後輩に対しても敬語のような標準語が混じる。これは自分という人間への自己評価の低さであり、自信のなさの現れだと思う。そして相手への警戒を解いてない証拠でもある。

 熟女でいいじゃん、と淫靡いんびな笑いを浮かべることで、先輩風を吹かせてみたが、私はこういうキャラだったっけ、と一瞬虚しさが立ち込めたが、
 「いや~、熟女はうへさんの専売特許でしょ」と、あちらもニタニタ笑いで返す。
 なんでや、と信号待ちしている姿勢のまま、車道に向かって吐き捨てるよう、けれど絶対に聞かれないよう、車がびゅんと通った瞬間を見計らって言った。
 ああ、このとぼけた感じが私は嫌いだったなあ、と後輩の欠点を忌まわしいと思いつつ、懐かしむ。

 「ここですここです」
 酒飲みの後輩に連れられてやってきた呑み屋は、赤提灯に「下田屋」と店名が入っており、そこから店内の扉へと続く薄暗いとても細い道があり、常連客しか訪れないような雰囲気を醸していた。
 黴臭そうだな、と既に来たことを後悔し始めていた私ではあったが、ここまで来ておいて急に帰るなど言い出せるわけもなく、後輩の後に続いて建付けの悪い引き戸を開けて、中へ入った。

 「ちわーっす」
 「おう」

 アロハシャツに髭ぼうぼうの店主に屈託なく話しかけるこいつの社会性も、私が持っていない特徴のひとつで、そんな部分も私が後輩をいまひとつ好きになれない理由でもあった。

 「とりあえずビールで。うへさんなんにします?」
 「うーん、ビール小で」
 「お、ビールいくんすね!」
 「まあ、一杯だけなら…」
 なんのためかわからない見栄を張って、いまだ好きになれないビールを注文してしまってから、チューハイにしておけばよかったと早速本日何度目かの後悔をする。

 「合コンの日程決まりました?」
 「おう、予定空けとけよ」

 後輩はこの髭もじゃの店主と合コンに行くほどの仲なのか。店主の年齢はあきらかに40近い。後輩の23という年齢は嘘なのではないかと毎度ながら思う。

 「下田さんはっすね~、ゴッドフィンガーと呼ばれるほど数々の女性を虜にしてきたんですよ」
 けっ、ただのヤリチンじゃねーか、と内心で思いつつ、「おお、それはすごいですね~」と心にもないことをいってから、ビールをぐいっと煽って、冷や汗と嘘を誤魔化す。

 たくさんの女性を相手にするというのはどんな気分がするものなのだろうか。女性はどうしてこんな誠実さのかけらもなさそうな男と寝ようと思うのだろうか。
 女性と寝た人数を武勇伝のようにして語る(本人の口が語ってはいないがそれを否定しようともしない)ような男が、女性の気持ちなんかわかるとは思えず、モノ扱いするようにして女性を扱う男はみな死ねばいいと、心の奥底にある僻みのようなものは見ないようにして思った。

 「あ、そういえば下田さんは昔占いもやってたんすよ~、うへさん、みてもらったらどうすか?」
 「へえ~、手相ですか?僕のなんかわかります?」

 「手相も見れるけど……あんたあれね、ガンソウはいいけど、動きが気持ち悪い」

 心身ともに寺の鐘を突くアレで後頭部を思いきりやられたようになっている私をよそに、髭もじゃクソ野郎はからからと笑っている。

 そうとも。私には自分の動きが気持ち悪いことぐらい承知していた。ここ数年、体が思うように動かず、それを悟られまいと必死に生きてきた。この謎の症状はいつになったら治るのかと、常に漠たる憂慮を抱えていた。
 隠せていると思っていた。それをストレートに「気持ちが悪い」と言われた。

 「真に受けないでくださいよ?下田さんに悪気はないんすから~」

 この鈍感な後輩が不穏な空気を察知して、気の利いたことを言おうとしているということは、外に漏れているということか、と私はさらに体が硬直するのがわかった。

 私は気分が悪くなったが、ここで帰ると言い出すと、いまの発言を根に持ったと思われる気がしたのと、この体の硬直具合では、椅子から立ち上がることすらできそうにないと判断した私は、店内にある埃だらけの時計を眼球だけ動かして見やり、その針があと20分進んだら帰ろう、それまでの辛抱だ、と震えだす肉体を抑え込みながらその場を堪えた。

 「また来ます」などと笑顔で答えて店をあとにした。あれだけの怒りを感じておきながら、この期に及んで相手に媚びる私の態度はなんなのか。

 私の動きはそれを指摘されたときより、酷いものになっており、金曜日の弛緩しきった空気の中を帰るのは、あまりに骨の折れる作業だった。私は極力人目を避け、街灯のない暗闇を選びながら帰路についた。


趣味でしかものを書いたことのない、名無しの素人エッセイスト(自称)。 この度、どういうわけか当サイト「人格OverDrive」の主宰者である杜 昌彦氏に「掲載してみませんか」とお誘いいただき、こちらに寄稿することに。 29年間、苦しそうなこと、辛そうなことから逃亡している人生。フリーター。 寄稿するジャンルは妄想エッセイ。虚実交えた物語を書いていきたいと思います。
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