うへ

大人って歯も上手く磨けない

連載第25回: 無職考察

うへ書いた人: うへ, 投稿日時: 2020.08.25

 明日から無職。職を失うこと。それがどれだけ自分のアイデンティティーを損ねることになるのか。定年退職者の気持ちがわからなくもない気がしている。
 ほとんどすべての人間は、働いている。でなきゃ食えないし、住めないし、買いたいものを買えないからだ。(もちろん、身体的・精神的理由で働けない人をこの場合は除く)

「お仕事は何をされているんですか?」そういった質問は、まるで天候の話でもするかのように、初対面の会話でごく当たり前に出てくる。「自己」紹介の一部として。
 あまりに皆が普通に「私は営業です」「私は医療関係です」などと名を名乗るようにして答えるものだから、私は萎縮してしまう。
 もしもここで、「私は無職です」などと答えようものなら、場の空気は一瞬氷結し、触れてはいけない話題に触れてしまったのだと思い、相手は二の句が継げなくなるだろう。(まあ、「無職です」と堂々と名乗れるほどの人物であれば、肝が据わっているから、相手もそれに気兼ねなく構えていられるかもしれないが。ここでは仮に卑屈な人間が「無職です」と名乗ったと仮定して話を進めよう)
 でなければ、「それでは転職活動中ですか?」「静養期間中なのですね」といった言葉、つまり労働の「中休み期間中」であるということを前提として話が進められる。まるでそれ以外の選択肢なんて端から存在しないみたいに。

 つまり生存することと働くことは、もはや同義なのである。「労働」の備わっていない人間は、「人間」としてどこかが欠けた人間と見做される。それはどんなに善良で心の清い人間であっても、知らず知らずのうちに社会性を身に付けた大人なら、誰しもが獲得するフィルターなのである。

 働くということの意味は、単なるお金を得るための手段以上に、自己というアイデンティティーの獲得、存在価値の証明でもあるらしい。
 定年退職後に「生きがい」や「居場所」を失って一気に老け込むという話がある。世間一般では、それを防ぐため「健康維持」や「老後の資金」獲得のために働くのだと思われているようだが、それは本質ではない気がする。
 これまで「働くこと」は、彼らの一部であった。いや、半分であった。そうした価値観のまま、一滴の疑いもなく、数十年間を生きてきたおかげで、ひとたび「働くこと」を奪われた人間はすべて「人非人」なのである。そうした認識、価値観そのものが、自らの首を絞め、憔悴する原因ではないだろうか。
 であるからこそ、人は「労働」という麻薬を求め続ける。「労働」とは、人間が人間であることを直視することを避け、考えないための、一種の「麻薬」なのである。
 などと、将来が不安な無職の私は、思うのであった。


趣味でしかものを書いたことのない、名無しの素人エッセイスト(自称)。 この度、どういうわけか当サイト「人格OverDrive」の主宰者である杜 昌彦氏に「掲載してみませんか」とお誘いいただき、こちらに寄稿することに。 29年間、苦しそうなこと、辛そうなことから逃亡している人生。フリーター。 寄稿するジャンルは妄想エッセイ。虚実交えた物語を書いていきたいと思います。
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