ブコウスキーの未発表作品集を読んでいる。 リトルプレスや ZINE に書き散らし、 晩年には Apple II で書いていた (しかしラジオの位置は右側と、 タイプライター時代と変わらなかった) 彼が現代にもまだ生き長らえていたら、 きっと自分で Mastodon のサーバを建ててこのようなたわごとを垂れ流していたのだろうなと思う。 彼の文章を身近に感じるのは人間性ゆえだ。 ある記事によれば生身の人間が書かぬほうが読者には喜ばれるそうだ。 AI が書いた事実を指摘したコメントは批難され表示優先度が落ちたとのこと。 中央集権の資本主義サービスでも創設者自身が批判しているほどだが、 表示優先度を決めるアルゴリズムは必然的に人間性を淘汰する。 というより生身の読者自身が排除されるべき非効率なものとして人間性をきらうのだ。 人間がインターネットで受け入れられない理由は、 大量の情報を効率よく処理することに最適化された需要が、 マネタイズのしやすさゆえに優先されるからだろう。 新しいもの、 独自なもの、 見慣れぬものは排除される一方、 くりかえし利用され定型化された、 考える必要のないほど見慣れた 「わかりやすい」 文章がよしとされる。 それこそまさに AI の得意分野だ。 つまるところ読まれやすさは人間性を排除した効率にしかない。 ソーシャルメディアでの表示機会にはジェンダーによる明確な格差があるし、 Kindle ストアにそうした偏りがあるのも自明だ。 人間性の排除はテキストにおいてばかりではない。 名刺交換や挨拶まわりで顔を売り、 つきあいで売り買いする技能に人間性が介在してはならない。 コンテンツ以上にシビアな効率が求められる。 生身の人間がそれをやるなら、 交流自体が目的であることを巧みに装わねばならない。 大手広告代理店がマネタイズをもくろんで、 生身の思惑を感じさせたがゆえに炎上した漫画の例もある。 またその手のコミュニティには京アニ放火事件の犯人のような、 才能のなさを他人のせいにする人格異常者がまぎれこんでいて、 うっかり目立つと (読まれるには目立たねばならないわけだが) 暴力の標的にされる。 味方のない無名人は近づかぬが吉だ。 そもそも余暇にまで交流なんかしたくない。 大昔に死んだ作家や、 遠い異国の作家の言葉だけを読んで過ごしたい。 しかし寄稿者との連絡手段は必要で、 メールは即時的なやりとりに向かない。 そのためポルトガルの業者に Mastodon サーバを建ててもらったが、 そもそも即時的なやりとりは自分には向いていなかった。 もっぱら独り言を延々と垂れ流している。 分散ソーシャルネットワークで Mastodon を選んだ理由は使い勝手が単純だからだ。 GNUsocial もそれなりに気に入ってはいたがいかんせん古すぎた。 人格 OverDrive は Ostatus にも ActivityPub にも対応しているが、 BuddyPress のタイムラインにリモートフォローした投稿を表示させたりはできないし、 それ以前に GNUsocial から一方通行で人格 OverDrive をフォローできたのみで、 Mastodon とはどちらからも叶わなかった (追記:この問題は解決し、 Mastodon から人格 OverDrive の各アカウントをフォローするのには成功した。 記事は人格 OverDrive のアカウントから Fediverse に配信される)。 Fediverse に執着する理由は epub や WordPress にこだわるのとおなじ。 自由に書いて出版したいからだ。 WordPress の標語は 「出版の民主化」 で、 だから信頼していたのだが最近の動きは 「だれにでも使える」 の意味を取り違えたかのようで、 「使い勝手を開発者が勝手にお膳立てする」 になってしまっている。 努力は惜しまないからユーザに決めさせてほしい。 本来はだれもが自分のサーバをもつ世界であるべきだ。 自分のサーバに他人を招き入れるのではなく、 よそにいる他人をつきあいに応じて混在表示させる。 現に Fediverse はそのようなものとして設計されているのに、 なぜ日本人は両手に嗜虐的なコンテンツをかかえて大規模サーバにわざわざ群れ集うのか。 三年前の日本における Mastodon ブームは、 いわゆる 「赤い薬」 (差別主義者にとってのあるべき世界への切符) として期待されたにすぎず、 ネオナチが gab.com を、 ISIL が diaspora* を利用したようにペドフィリアが約束の地を夢見て大量流入したにすぎなかった。 優生思想と同様、 ペドフィリアもまた全体主義社会にとって都合がよい。 成人男性が女児を搾取するコンテンツは権力構造を再生産する装置たりうるからだ。 twitter ジャパンは現政権とつながりの深い企業 (某大手広告代理店が大株主) によって運営されており、 流出しかけたユーザは何事もなかったかのように戻ってきた。 言葉の自由を取り戻す、 という考えは、 結局のところ差別主義者にあべこべに悪用されるだけなのかもしれない。 ⋯⋯とここまで書いて、 ブロックチェーンについて書かれた文章をいくつかよみ、 だれもが自分のサーバを、 という発想は古いかもしれないと気づいた。 意図するところは合っていても。 サーバではなく各自の端末が結節点となるような P2P 的なやり方が、 書いて出版する自由の未来かもしれない。
2020.
08.20Thu
(1975年6月18日 - )著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、総勢20名以上の協力を得てブラッシュアップした『血と言葉』(旧題:『悪魔とドライヴ』)が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。代表作に『ぼっちの帝国』『GONZO』など。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。
『D.I.Y.出版日誌』の次にはこれを読め!