イシュマエル・ノヴォーク

コイディシュ・ブッフ

第19話: ラフ・イン・エルパソ

イシュマエル・ノヴォーク書いた人: イシュマエル・ノヴォーク, 投稿日時: 2020.08.07

 テキサス州はエルパソの農道。タイヤが小石をまきあげて農作業用トラックの赤い車体にぶつかった。トラックは荒れ地を進む度に車体が上下左右に揺れる。
 トラックを運転するのはラフミール・マシュベル。本人曰く、ラフ・ベル。ラフは生まれ育ったニューヨーク州、サウス・ブロンクス地区で高名なラビだった父親の葬儀に出席するためにトラックを運転して出掛けたものの、結果は散々なものだった。

 和解や赦しは人間の感情の中で最も高貴なものである。なぜなら、困難であるから。

 窓から垂らした片腕の先には吸いさしの葉巻。火が消えてから半日以上経った葉巻はラフの汗と風ですっかりくたびれ果てている。窓の横に栗色の毛並みと車輪のついたブーツがあらわれ、上から「どうだった?」という声が聞こえた。ラフが言う。
「なぁ、バーリング。故郷ってやつはなんだと思う? おれはすっかりわからなくなっちまったよ」
「生まれたところ、育ったところが故郷なわけじゃない。居心地が良くて、ずっといたいと思う場所。そういうものだろうよ」
 バーリングはカウボーイハットを一撫でするが、その動作はラフから見えない。ラフが言う。
「兄貴に言われたよ。このろくでなし、ってな」
 噛み煙草を噛むバーリングの頬は片側がカエルのように膨らんでいる。バーリングが
「当たっているぜ、ラフ・ベル。大当たりだ」
「傷口に塩を塗るような真似はよしてくれ」
 栗色の馬が歩く度に蹄鉄が小石を蹴り上げて小気味良い音が響いた。バーリングが言う。
「馬のお産に立ち会ったことはあるか?」
「牛ならしょっちゅうだよ」
「似たようなもんさ。牛も馬も血だらけで生まれるんだ。よろよろ立ち上がったら、すぐに歩き出す。牛や馬が、もう一度、腹の中に戻りたいなんて言うか?」
「喋る牛や馬は見たことないな。もし、いたとしたらサーカスに売るよ。うんと高値がつく」
 バーリングが笑って言う。
「人間も一緒さ。おれの家も、半年もしたら騒がしくなる。月の下で蹄鉄が浮くほど濃いアーバックルを飲むおれが人の親になる。お前はどうだ? お前にとってニューヨークは故郷だったのかも知れんが、エルサレムじゃなかった。それだけさ。おれの生まれはアーバダだが、こうやって長いこと馬に乗っているうちに帰り道を忘れちまった。でも、だから何だ? そんなに故郷とやらが大切か? 故郷がないと血が凍って、心臓が止まるのか? バカを言え。ここが、エルパソがおれたちの腹なんだ。誰が何と言おうと。アーバダもニューヨークもクソくらえだ」
 ラフがステットソン社製のフェルト帽のつばに触れた。前方ではアルマジロが短い足で素早く歩き、繁みに身を潜める。空一面に広がるメキシカンブルーの空を見上げたラフが笑顔を浮かべた。
 バーリングが「おかしなこと言ったか?」
「いいや。ところで、メシは済ませたか?」
「まだだな」
「奢るよ。一杯やろう」
 バーリングが口笛を吹き、ラフは再び笑顔を浮かべた。


『ロクス・ソルス』という同人小説サークルで活動しています。それから、ジャズピアノの演奏活動をしています。気が向くと絵を描いたりします。
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