イシュマエル・ノヴォーク

コイディシュ・ブッフ

第17話: 黒パンの時代

イシュマエル・ノヴォーク書いた人: イシュマエル・ノヴォーク, 投稿日時: 2020.08.07

 大昔から戦争はあった。詳しくは知らないし、調べたこともないが、多分、人が最初に書いた文字は〈戦争〉だろうな。

 ラーゲリに入れられた時、最初のうちは自分がどんな状況なのかピンときていなかった。宿舎は二段ベッドが並んでいるだけ。寝転がるとすぐに痒くなってくる。ノミのご馳走だ。目を瞑ろうが、開けようが同じ、真っ暗。夜の間中、ずっとうめき声が聞こえていた。
 
 おれは炊事係をやらされたから運が良かった。朝は腐りかけの野菜を浮かべた塩スープと黒パンをパン屑までキッチリ測って等分した。黒パンなんて、雑草が混ざっているのにだ。夜はモロコシを煮込んだもの。一応は刻んだ肉を入れていたが、肉なんて呼べるようなものじゃない。それでも、皆が目を血走らせておれの手元を見ていた。隣の奴の肉が多めに入ることが許せないんだ。それが生き死にに繋がるラーゲリじゃあ当たり前のことだが。
 何日も吹雪が続いていたある夜、ふと、指先が赤黒くなっていることに気が付いた。凍傷にかかっちまったんだ。何も感じなかったよ。痛みもなかったしな。ただ、どうなるか、その先を考えると怖くて仕方がなかった。吹雪が続いていたからか、その夜は明かりが点いていた。明かりっていっても、木の皮を燃やしているだけで大して明るいわけじゃない。ただ灯っているだけ。
 一枚しかない毛布を頭からかぶって考えた。朝まで放っておけばもっと悪くなる。放っておけば死ぬ。死にたくなかった。覚悟を決めたおれは赤黒くなった指先を口にくわえた。あの感触を忘れたことはないよ。指が口の中に落っこちた。血は出ないし、痛みもなかった。夜の間中、明かりを見て過ごした。
 朝が来て、手を見られたおれは医務室に連れて行かれた。医務室には女の医者がいた。それが、タマーラだった。おれは多少、ロシア語が喋れたが、口を開く前にわかった。お互いが理解できた。

 ラーゲリでは寒さと飢えで死んだ同胞たちを沢山、埋めてやった。雪と、カチカチに硬くなった土の中に。あんなに寒くちゃ、死んでも死にきれないだろう。死んだ同胞たちはさっさと審判の喇叭が吹かれるのを待っているだろう。

 毎週、健康かどうかを見られた。医務室で裸にされるんだ。タマーラは上に、おれが医者で、ラーゲリで死なせるにはもったいない奴だと報告をしてくれた。ソビエトのためになる奴だから、生かしておいたほうがいいとか、そんなことを言ったそうだ。真っ赤な嘘だったが、おかげで、おれはラーゲリから出ることができた。おれはタマーラとイルクーツクの駅で会うと約束してから別れた。約束通りに駅で会った時、抱き合って泣いた。お互い、どこにも居場所がなかった。それから、すぐに二人で列車に乗り込み、赤軍兵士相手にカードでインチキして金を貯めた。

 この国に来るまで、おれは色んな奴を出し抜き、足を引っ張ることをした。それでも誇りに思うよ。悪魔を出し抜いてやったんだからな。


『ロクス・ソルス』という同人小説サークルで活動しています。それから、ジャズピアノの演奏活動をしています。気が向くと絵を描いたりします。
amazon