イシュマエル・ノヴォーク

コイディシュ・ブッフ

第16話: あなたに消えていく

イシュマエル・ノヴォーク書いた人: イシュマエル・ノヴォーク, 投稿日時: 2020.08.07

〈リリ〉

 ザベルのカフェでドヴィド・ヘルツォークの『花のシュテートル』を読んだ。ワルシャワのシュテートルが舞台だから懐かしく感じる。でも、こんなに輝いていたかしら? 私にとっては小さくて、黒ずんだ場所なのに。
 本を置いてコーヒーを飲み干す。あたしが手を挙げる前に給仕のザベルがやってきた。
「勘定か?」
「えぇ」
 あたしがお金を置くと、ザベルはポケットからお釣りを出した。
「最近、姿を見せないが、親父は元気にやっているか?」
「先日、中庭でドミノ牌をなくしてから風邪気味なの」
「全部なくしたのか?」
「一つだけ。でも、大切だったみたい。ワルシャワから持って来たものなんですって。気落ちしているわ」
「モノに価値を置きすぎるのも考えものだな」
「そうね。言ってあげて」
「仕事はどうだ?」
「段々、増えてきたわ。寒くなる少し前は忙しくなるの。皆、コートを思い出すみたい」
「天気に左右されるのはここも一緒だな。雨の日は客足が悪くてな」
 あたしはザベルにお別れを言ってカフェを出た。

〈ゲツル〉

 店じまいしかけているカフェは静かな時間が過ごせる貴重な場所だ。もし、ぼくが王様なら恭しい態度の召使たちがぼくの一挙手一投足を見て、ご機嫌をとろうとするだろう。カフェは違う。
ザベルは遅い時間に来ても何も言わない。彼が帰りたいと思えば、ぼくの名前を呼んで勘定させればいいのだから。ザベルは不思議な人だ。髪の毛は短く、時々、メガネをかける。前掛けを垂れ下げ、そそくさと歩いて料理や飲み物を運ぶ。このカフェは彼のものじゃない。カフェは彼の恋人、愛人と言ったほうがしっくりくるだろうタマーラ・コストヴァのもの。ザベルとタマーラの噂は父さんから聞いた。有名な話だし、サウス・ブロンクスに住んでいる噂好きのユダヤ人ならば皆が知っている。ザベルがイルクーツクのラーゲリにどうして収容されたのかは知らない。多分、彼が話していないのだろう。そうでなければ、誰かが口に出す。口に戸は立てられないのだから。どうやってソビエトの軍医だったタマーラと、収容されたザベルが恋人になり、ラーゲリを抜け出したのか? どういう偶然が二人をアメリカに引き寄せたのだろう? 

 ぼくはコーヒーを注文した。待っている間はフォアヴェルツ紙を開く。本当の所、開く必要なんてない。デスクで嫌というほど確認したのだから。ぼくはタイプライター打ちのギンプルから渡された原稿を穴が空くほど読んでから編集長のボリス・ミジェレツキに渡している。
 ぼくにはギンプルのようにイディッシュ語に対する愛も、ミジェレツキのようにすっかり減ったイディッシュ語の話者たちを奮い立たせようという信念も欠けている。ぼくはラビ・マシュベルのシナゴーグに通い、討議を重ねて、いつかはラビになりたいと思った。ぼくには根っこの部分が欠けていた。

 テーブルの上にコーヒーを置いたザベルが
「この一杯で終わりだ。今日はおかわりはなしだ」と言って手を揉んだ。彼の指先はラーゲリで凍傷にかかってなくなった。萎んだような指先。
「痛むのかい?」
「雨が降る日と、冷える日はな。おかしなことだが、指先が痛むことがある。ないのに、あると感じるんだ」
「病気なの?」
「医者に診てもらったりすれば、全部が病気になっちまう」
「タマーラには診てもらわないのかい?」
「誰から聞いたんだ?」
「父さんから」
「あのお喋りめ」
「父さんからお喋りをとったら何も残らないよ」
 笑顔を浮かべたザベルが「そうだな」
 ザベルが隣のテーブルに置いてある本を見た。本には英語で『花のシュテートル』と書いてある。
「ゲツル、飲み終わったらそいつを届けてくれ。リリが忘れていったみたいだ」
「〈骨折アパート〉?」
「他に誰がいる? さっさと飲んだら金を置いて、アパートまで走れ。どうせ、帰り道なんだ。頼み事の一つや二つ、聞いてくれてもいいだろう?」

〈リリ〉

 ソファではパパが眠っている。パパは五〇歳になったばかりだけど、七〇歳ぐらいに見える。長年、朝から晩まで働いた疲れが今になって出た。そんな感じがする。ママが亡くなってから、パパは懸命に働いた。あたしはパパが自分の人生を磨り潰してくれたことで、今、こうして暮らすことができる。生きるために誰かを踏み台にして、誰かのための踏み台になる。
 
 鍋に温めた炭をいれて、糸を切る。糸に蠟をつけたら紙に糸をはさんで鍋を滑らせる。糸を強めに引いたら、まずは完成。ホールの位置に印をつけて、真ん中に線を描く。ボタンよりも少しだけ大きく。印の上を縫って、最後は縫いはじめに重ねる。ホールに切り込みをいれる。まち針を使って切り過ぎないように注意。針を四隅から出したら、いよいよ大詰め。切り込みに針をいれて上から出して、輪ができたら下から上に針を通して、ぎゅっと結び玉をつくる。隙間がないように同じ幅。布の端に団子ができるように。端までかがったら横に糸を出して、切り込みの裏から針を出したら真ん中で二本縫う。逆側の最後の玉一目と、縦に二本縫った縫い目をすくう。端までかがり、横と縦で二本ずつ縫う。生地の裏側、かがり目に針を少しだけ通して切り落とす。済んだら、もう一度繰り返す。

 三つ目に取り掛かろうとしていた時、ドアがノックされた。あたしは生地を置いてドアを開けた。
「やぁ……こんばんは。その……ザベルから言われたんだ。本を忘れていたよ」
 ザベルのカフェで会った人。ゲツルだったかしら? 少しだけ髪が濡れている。
「その本、面白い?」
「あたし、あんまり本を読まないから」
「ごめん」
「どうして謝るの?」
「その……悪いことを聞いた気がしたんだ」
「謝ることじゃないわ。読んでみたい?」
「うん、早く読み終えて返すよ」
「ゆっくりで構わない。あくせく読んでも楽しくないもの」
「ありがとう。ネショメーニュ(わがたましい)」
 あたしが聞き返す前にゲツルは風みたいに廊下を走り去り、階段を下りる音が聞こえてきた。

 ドアを閉めて、部屋に戻ると鍋の下敷きはすっかり焦げていた。


『ロクス・ソルス』という同人小説サークルで活動しています。それから、ジャズピアノの演奏活動をしています。気が向くと絵を描いたりします。
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