イシュマエル・ノヴォーク

コイディシュ・ブッフ

第14話: かしこいものには花を

イシュマエル・ノヴォーク書いた人: イシュマエル・ノヴォーク, 投稿日時: 2020.08.07

 ぼくの左には靴磨きのイェフダーがいる。イェフダーが地べたに座って大あくび。
「シュアハ、世の中はうんと変わった」
 イェフダーが靴墨で真っ黒の手で鼻をポリポリ掻いた。
「まず、ワシのお隣さんが変わった。これまで、一日中、休まずに喋り続けるイタリア人がいたし、ものぐさのアイルランド人。華僑、カフェルもいた」
「世界中の人たちがイェフダーの隣みたいだ」
「そう言っていいだろう。不思議なもんだが、お前とイダ。ユダヤ人が続いたのは初めてさ。これは奇跡だ。奇跡はありふれているから、ワシらにはわからないようになっているんだ。いいか? 奇跡っていうのは日常のことだ。日常! ボロ布で旦那方の靴をぴかぴかにしてやること!」
「仕事は大事だね」
 イェフダーは手鼻をチーンとかんで、手をブラブラさせた。
「お前は物分かりがいい。でも、それで得意になっていると真っ逆さまだ。よぉく肝に銘じておくんだぞ。昔の話だ。二九年には、ビルから大勢が飛び降りた。下にはクッションなんて敷いていないのにな。その前の日までは、旦那方はチップを弾んでくれたよ。チップなんて言えないぐらいの金額さ。旦那方は大儲けしていたんだ。いよいよ、神様がワシを金持ちにしてくれるんじゃないかと思ったぐらいさ。とんだ思い違いだったよ。あっという間にブルックリンのコロンビア通りからコート通り、ミル通りからロレーヌ通りはフーバー村になっちまって、旦那方も村人になっちまった」
「村なんてないよ?」
「昔はあったのさ。今は影も形もなくなっちまったがね。最近じゃあ、カフェルも変わったな。昔だったら、大通りに出てくる時は早足で歩いたもんだが、今じゃあ、のしのし歩いてる」
「ゆっくり歩くことは悪いこと?」
「いいや、誰だってゆっくり歩きたい時はある。でも、そういう風にしちゃいけないと言いつけられるんだ」
「誰に?」
「まわりって奴だ」
「ぼくとイダ?」
「いいや。まわりっていうのは、顔が無いんだ。ついでに心も無い。金は多少、持っているが、他人のために使おうなんてしないから、じっさいは文無しと変わらん。まわりっていうのはけちん坊で、目も耳も使おうとしない。それなのにメシを放り込む口ばかりがデカいから大食らい。まったく目も当てられんよ。その点、ワシはどうだ? 多少の酒と豆が浮いたスープがあれば朝から晩まで靴をピカピカにできる」
 イェフダーの目の前にお客がやってきて足を置くとイェフダーが片目を瞑った。ぼくはポケットにしまっていた、スモレンスキンさんからもらったベーグルに齧りついた。
下を向くと決まって帽子が落ちてくる。右隣で、かご一杯の花を売っているイダが帽子をなおしてくれた。
「今日は花が売れ残っちゃいそう」
「ぼくも。それなら交換してみない?」
「じゃあ、一つだけね」
 イェフダーの下手っぴな鼻歌が聞こえてくると、ぼくとイダが笑った。地べたに座ったイダがフォアヴェルツ紙を広げて、ぼくはポケットに花をさした。


『ロクス・ソルス』という同人小説サークルで活動しています。それから、ジャズピアノの演奏活動をしています。気が向くと絵を描いたりします。
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