杜 昌彦

D.I.Y.出版日誌

連載第269回: 人間になるための厄介

杜 昌彦書いた人: 杜 昌彦, タグ:
2020.
08.07Fri

人間になるための厄介

きらわれものだから読んだり書いたりするのだが、きらわれものだから書いたり出版したりする権利がない。他人に受け入れられたければその努力をすべきだというのは正論だし、つねにせいいっぱい努力はしている。しかし自分なりの努力など社会的になんの意味も持たないし、受け入れられる最低条件がわたしでないことであるのは、そりゃもちろん別人になろうと努力するところではあるけれど、でもそもそもがむりがある。生まれ育ちはどうにもならない。自力で努力して得られるもので自分がどのような人間であるかを決めたいのに。わたしがわたしであるために出発点に立てない。twitterをやめたことで懸念しているのは寄稿者との距離だ。もとより親しくはない。文章に惚れてむりに頼み込んで掲載させていただいている(しかも原稿料すら払わず)だけの間柄だ。若林さんとは最初からメールでやりとりしているからおそらく変わりはないと思うし(そもそもプロである彼女からなぜ原稿を預かれているかがふしぎだ)、諸屋さんは日記で言及したら反応してくれたっぽいから問題ないと思うけれど(彼女がプロでないのは単純にこれまで書いていなかったからにすぎないような気がする、知らんけど)、うへさんはtwitterすら投稿しなくなっちゃったし(かなりの蓄積があった質の高い書評サイトをちょっと前に抹消されたので心配だ)、ノヴォーク氏(近しいひとはイシュと呼んでいるらしく、その距離感がちょっとうらやましい)にいたっては距離がさらに遠ざかった気がする。彼らの小説(うへさんのはエッセイとのことだけれどわたしは小説として読んでいる)が読めなくなったらどうすればいい。わたしひとりの問題なら諦めもつくが彼らは実際、よく読まれている。つづきを楽しみにしている読者はわたしばかりではないのだ。「ごっこ」なりに編集者として他人とうまくやれる能力がわたしにあればよかったのに。人格が歪んでいるわたしは他人とうまくやれない。しかしより必要なのは世渡りの才覚で、それは対人能力とは必ずしも関係がないようだ。傲慢で尊大で、まったく他人の話に耳を傾けず、他者の人格をまったく尊重しない人間のほうが、むしろ評価されやすいのをたびたび目の当たりにする。なにゆえ評価されるのかといえばいわゆる生産性だ。他者の尊重は生産性とは対極にある。なんかこの辺にヒントがあるような気がするなぁ。世渡りは生産性のゲームだ。他者を尊重できるひとでも評価されることはなくはないから、人間性とはまったく関係なしに、何かゲーム的な才覚であるらしい。社会的に評価されるポイントを効率よく稼げるという。ソーシャルではふつうの人間であることが求められる。ふつうの人間とはだれとも区別のつかない、だれともおなじ言動をするひとだ。独自の感情や個性、人間性は見せてはならない。平均値を表示するだけがふつうの人間だ。であるならばAI的なもののほうが人間として受け入れられやすい。そう考えるとツール的なものを使えば生身でやるよりソーシャルで受け入れられるのではないか。問題はそれらしいツイートを自動生成するツールはいまだ存在しないだろうということだ。平均的、といってもどこの平均かというのがあって、評価される「ふつう」がある。わたしだって無能ばかり集めて統計をとればきわめて平均的な人間であるはずだ。社交的に評価される投稿を自動生成するツールってないのかな。定型化された発想を定型化された言葉でつづったものである必要があるので、そのようなものこそ生身の人間よりアルゴリズムに向いているはずだ。特定の単語と行動パターン(フォロー、いいね、リツイート)の親和性で自動的にフォローをくりかえす機能もほしい。そういうツールがあればわたしもせめてインターネットでは人間扱いされるかもしれない。ああ人間になりたい。好きでこんな屑であるわけではないのだ。


(もり まさひこ、1975年6月18日 -)著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、藤井太洋氏、十市社氏らによる指導を受けた『悪魔とドライヴ』が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。最新作は『ぼっちの帝国』。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。
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