杜 昌彦

D.I.Y.出版日誌

連載第267回: 何をしたいんだ?

杜 昌彦書いた人: 杜 昌彦, タグ:
2020.
08.04Tue

何をしたいんだ?

結局わたしは何をしたいのか。他人に認められたいのか? どうもそうではないようだ。他者は自己肯定感の手段でしかない。わたしを除く全人類(わたしが人類に属するか否かは別として)が突如消失して『ウィトゲンシュタインの愛人』みたいな世界になっても書くだろう。むしろそのほうが気楽に書けそうな気がする。いまさら14歳の頃のようにシャープペンで大学ノートには書けないし、日本語で打鍵して書くには電気が必要なので、実際には書きようがなかろうが。技能を自分に対して実証し、それによって自己肯定感を得たい。突きつめればそれだけなのだが、書いた以上は何ひとつまともにやれぬのが他人の評価で可視化され、結果として自己肯定感を低下させるばかり。その問題を解消するには売らねばならず、世渡りがまずいので悪循環が深まる。無能は何をやっても無能なのだ。だれもいない世界でだれにも気兼ねせずに好きな言葉を好きなように読んだり書いたりしたい。現実にはそうもゆかぬから苦しむ、それこそが我が出版(Publish)活動だ。わたしのような無能はそう珍しくはないのだし、twitterやAmazonや営利出版社(や、使ったことはないけど投稿サイト)のような資本主義サービスと相性が悪いだけなのかも、とも思う。似たような人間にリーチできる手段があれば読まれるはずだ。わたしのような言葉が売られていないからにはだれもわたしのような言葉を知らないわけで、だれも知らぬ言葉は売りようがない。大手出版社が判で押したように素人がゲーム世界を空想して書いた小説ばかり売りたがるのは判で押したようだから、知らない要素がないからだ。編集者らの言葉を借りれば前例やらコンセンサスやらエビデンスやらがあるからだ。「読書とはそういうもの」という糞みたいな「コンセンサス」を四半世紀かけて出版社が醸成してしまった。手間がかからず実績テンプレートがあるから、あるいは自転車操業に博打は打てないからとの理由でそのような商売を拡大再生産しつづけて、読者を育てる努力をしなかった、というか、むしろそういう「すでに知ってるアニメやゲームみたいな本」しか読めない読者を意欲的かつ積極的に育ててきた。しかしそれは読みたい本が出版されなくなり読めなくなった理由であって、わたしの言葉が社会にとって無価値でありつまらぬ迷惑でしかない理由ではないな。翻訳小説でなら読みたい本も出版されないわけではないし。ウィリアム・ギブスンの三部作の三冊目みたいになぜ翻訳されないのかわからない本も多いけどな。わたしの言葉が無価値なのはそんなこととは関係なく、単にわたしが無能だからだ。有名大学を出て大出版社に就職した、名刺が立派なだけで実際にはわたしと大差ないほど無能すぎる編集者が、社内会議のプレゼンでフォロワー数くらいしか根拠ある数字を出せないのもわかるような気がする。独自の視点や個性は商業出版では売りにならぬどころか売る妨げにしかならないのだ。一方で独自の皮肉に満ちた『豚はいつ飛ぶ?』はすげえ読まれる。調べたらFacebookからの流入だった。諸屋さんのフォロワーがそこに三百人いるからだ。Facebookのフォロワーは質が高いんだよな。おなじ三百人でもtwitterだとそこから読まれることはまずない。千人でちょぼちょぼ、二千人でようやく意味をなしはじめる印象。じかに顔を知っている間柄が支持者の力としては強いのだ。やっぱり政治家や演歌歌手とおなじで名刺を配って握手して顔を売るしかないんだろうな。twitterを健常者のように使えるようになれば多少は読まれるようになるのでは、と考えたりもしたけれど自分にはむりだった。その努力に至る前に挫折した。そのはるか以前の問題だった。現状の問題としてはわたしがわたしである以上はわたしの言葉はだれからも受け入れられない。受け入れられない言葉は存在しないもおなじだ。であるならば書く意味はあるのか。ない。別になくとも構わないが、であるならばわたしは何をやっているのだ。他人はどうにもならぬが自力でどうにかできることはどうにかしたい。『ぼっちの帝国』は表紙がゴミだった。何かひとつでも人並みにやれることがあればよかったのに。十年間これだけ努力をしてこのざまだ。もっと強烈に自己満足できることを探さねば。作品の価値と社会的評価はまったく関係がなく、わたしは救いようのない無能なので、小説についてはやればやるほど無能を意識するばかりだけれど、他方、だれも見ていないGNUsocialで好きなことを書き散らすのには自由を感じる。中央集権の資本主義サービスに××握られずに好きなことを好きなように書きたい。まさにそれが理由でかつて『KISS』と『PUNK』をFedora core1で書いたのだが、日本人技術者は日本語を軽んずるらしく、縦書きで日本語の小説を書くという単純な目的すら果たせないのでMacに乗り換えた。日本人は権力に与えられた枠組でしか考えることができない。抗う者を嘲笑したり威圧したりして潰すことしかできない。ウェブや電子書籍の日本語縦書きを実現したのがイラン系米国人女性だったことでもわかる。恥ずかしいことだ。Mastodonのお気軽ホスティングサービスはどれも個人が運営していて長期的な信頼性はないし、とりわけ日本のサービスはどれもペドフィリアや差別主義者による一過性の流行のときだけ機能していた。GNUsocialなら自由度が高いし発想がブログの延長だしPHPで書かれていてとっつきやすい。何よりインストールが数クリックで済んだ。しかし通信方式が古すぎるのが気にくわない。安定版と先進版があるらしくて、後者に更改すればActivityPubを使えるらしいことがわかった。利用しているサーバにはすでにgitが入っているし、Macのターミナルからsshでいじることもできるらしく、どうやら不可能ではなさそうだ。次の休みにでも試すつもりでいる。だからなんだという話だが。


(もり まさひこ、1975年6月18日 -)著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、藤井太洋氏、十市社氏らによる指導を受けた『悪魔とドライヴ』が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。最新作は『ぼっちの帝国』。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。
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