D.I.Y.出版日誌

連載第265回: お一人様万歳

杜 昌彦書いた人: 杜 昌彦, タグ:
2020.
07.30Thu

お一人様万歳

中央集権的なプラットフォームは見れば見るほどわたしの場所ではない気がする。そこでの議論はいかにも何か意見が交わされているようだけれど実際には意見は重要ではなく、社会スキルの生産性が数値化される場においてどう立ちふるまうかのゲームでしかない。いちいち共感するのが虚しくなる。「人気の話題」にユーザを集めるアルゴリズムがだめだということは運営側も気づいてるらしい。関連付けアルゴリズムが被言及性に価値をおくのはわからなくもないけれど、収益効率化を目的とすると最終的にはだれにも見向きもされないゴミになる。「人気」という価値の効率化(=「生産性」)を追求するアルゴリズムは人間性を疎外するし、いま起きているのはまさにそのような問題であって、それが将来的には巡り巡って彼らの頸を絞めるのが明白なのだけれど、営利企業である以上そこからは抜け出せない。所詮は企業の論理でしか考えられないから、フェイクニュースを防ぐため、などといった屁理屈に寄せようとして支離滅裂になる。にもかかわらず日本人は権威(=人間性を排除する「生産性」)が大好きだから、個を抑圧するゴミであってさえも関連付けアルゴリズムによって権威付けされると大いにありがたがる、というか、個を抑圧するゴミだからこそありがたがる。かくしてプラットフォームはひたすら人間性から乖離しつづけ、人間性を抑圧しつづける。先週末の碇雪恵さんのメルマガ(フォローはしてもされてもいないがメルマガだけ拝読している)に、「『あるがまま』推奨が進んでる気がするけど、一方で努力すること自体に価値があるってことを言いにくくなってませんかね。(中略)人は自分の基準だけで生きられるほど強いのでしょうかとも思う」とあった。メイシー・グレイに『自分自身であるための厄介』というアルバムがあって、その題名からもわかるように個、すなわち自分自身であること、を大切にする国ではそうあることに努力が必要という認識がちゃんとある。一方でわが国では、政治家たちの好む「行きすぎた個人主義」なる言葉にもあらわれているように、個、というものを何か悪いもののように捉える向きがある。自分自身であることは、闘って勝ち取るものなのだという認識がないのは、そのことに関係があるんじゃないか。日本人は発想の根本に「個」の概念がなくて、権威者から与えられる枠組を疑うということをしないから、国民から人権を奪うことを悲願とする政権を、天真爛漫に翼賛するし、彼らに都合のいい表示をすることが明らかな、政権とべったりの広告代理店の関連会社が運営するプラットフォームに対して、それでいいねやリツイートやフォロワー数の得点を稼げるとなれば、当たり障りのない不平をかわいらしく呟く、という程度の格好ポーズをとることはあっても、自由に発言できるインスタンスを自力で建てようなどとは、決して考えない。わざわざ建てるのはその歪んだ本性に従ってやりたい放題しようとする差別主義者やペドフィリアだけで、そうした輩が建てれば似たような輩が群がってくる。数年前に日本でMastodonが流行ったのはそのためで、だから日本のインスタンスは世界の爪弾きだ。従順に教育された日本人はそのことをだれひとり恥に思わない。人格OverDriveからアクティヴィティ・ストリームを取り除いたのはウェブサイトの方向性が曖昧になるからだ。その機能だけを切り分けるのはいい考えかもしれない。というわけでGNUsocialを使いはじめた。GNUsocialを選んだのはSoftaculousで簡単にはじめられるからだ。BuddyPressより簡素でストイックに感じられて好ましい。そうしたものがわたしには向いている。交流は要らない。孤独死で結構だ。軸足をこっちへ移していこう。やっぱり社会的に無価値であり有害でしかないわたしはだれとも関わらないことでのみ幸福を見いだせるのだと思う。

ezdog social


(もり まさひこ、1975年6月18日 -)著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、藤井太洋氏、十市社氏らによる指導を受けた『悪魔とドライヴ』が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。最新作は『ぼっちの帝国』。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。
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