D.I.Y.出版日誌

連載第264回: だれもいない街

杜 昌彦書いた人: 杜 昌彦, タグ:
2020.
07.25Sat

だれもいない街

完全に無気力になってしまった。小説を書くどころか何をする元気もない。自分は社会に愛されていて何をやってもまかり通る、という無根拠なかんちがい、思い上がりが人間には生きていくうえで最低限、必要なのだと思う。いまはそれと真逆の、社会的に適正な認識のなかで生きている。twitterはいいねやリツイートやフォロワー数といった「生産性」で人間の価値を決める場だ。優生思想とどこが違うのかわたしにはわからない。嘱託殺人を批判する発言を目にしても、流れてきた時点でそこにはいいねやリツイートの評価があり、「生産性」をもつ勝ち組が、その優位性でもってそうでない者を裁く発言にすぎないと感じる。twitterは本来なら接触しない文脈を相互に結びつけることで収益を得ている。相容れない場合、どちらの文脈が優先されるかはいいね、リツイート、フォロワーなどで数値化された「生産性」によって決まる。劣った者は淘汰される。たとえば、著名人にとんまな返信をして晒し者にされ、袋叩きにされている差別主義者のアカウントを見に行くと、ほぼ例外なくフォロワー数が数十だったりする。その差別主義者もまた能力の欠陥(生産性のなさ)ゆえに不適切な行動をして社会から排除されている。おそらくだからこそ差別主義者となる、カルトに取り込まれてショッピングモールを爆破する都会の孤独な若者のように。社会的価値で裁かれない場がほしい。馴染めない場からは全力で遠ざかりたい。にもかかわらず、寄稿者との連絡にtwitterDMを使っているとどうしてもタイムラインを眺めたり余計なツイートをしたりしてしまう。人格OverDriveの簡易版として、縦書き日記をだれでも投稿できるソーシャルメディアをつくるべきかと夢想した。FedoraとRedHatの関係みたいな。orgのほうがだれでも参加できるやつでpressのほうがちょっといいやつみたいな。twitterやFacebookやBuddyPressのactivityみたいなUIは断片的な思考を衝動的に記録できる。逆にいえばその手軽さに甘えて思考が断片化される。それだけなら自分自身の問題でしかないが、twitterはすでに述べたようにユーザの行動を相互に関連付け、衝突の機会を創出することで収益化する商売なので、わたしのような人間が利用するのはだれにとっても不幸にしかなり得ない。そこで独自のプラットフォームに隔離する必要が生じる。他人のための場所に書くからよくないのであって、自力で用意した場所であれば責任を負える。どのように機能するかも自分で決められる。だれも見ていない無名のソーシャルメディアに他人の視線を気にせず好きに投稿できる、というのがいい。だれもいない街であなただけが生活しているような。だれも読まない本を書くのも、あなたしかいない街をつくるのもおなじであるような気がする。そして、どちらかといえば後者に魅力を感じる。読書とはそもそもがそのようなものではなかろうか。深夜に書いて朝には消すこうした言葉も、その街で呟けばだれの迷惑にもならない。左右どちらかにアヴァターと自己紹介文があって、アクティヴィティと日記のタブが切り替えられて、日記のタブにはフロントエンドから投稿したり編集したりできる機能が備わっていて、ほしいのはそれだけだ。あとは何もいらない。しかし実際に試すとフロントエンドから投稿するプラグインはどれも一長一短だった。テーマも「なぜこのリンク先がこれなのか」と苛立たせられる箇所が多い。ブログCMSとソーシャルメディア、それぞれの考え方の違いが細部で微妙に噛み合っていない。やはり他人のつくったテーマはそのままでは役に立たない。自分が実現したい文脈に沿ってUIに手を入れて統一感を出さねばならない。金と手間をかけなければどうにもならぬとわかった。そこまでするか? わたしは人生をむだにしている。とはいえ、そもそもがむだな人生だ。社会的にまったくの無価値な人間が、それにふさわしいことをするにすぎない。

さしあたり、ふたつつくった。
https://alltomorrows.party
https://ezdog.org


(もり まさひこ、1975年6月18日 -)著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、藤井太洋氏、十市社氏らによる指導を受けた『悪魔とドライヴ』が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。最新作は『ぼっちの帝国』。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。
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