イシュマエル・ノヴォーク

コイディシュ・ブッフ

第12話: 天国の下稽古

イシュマエル・ノヴォーク書いた人: イシュマエル・ノヴォーク, 投稿日時: 2020.07.25

 イースト一五一通りにあるクラブ、〈テオ〉の壁には自称〈アメリカ一のアフリカ通〉であるオーナー、テオドール・ラングの仮面コレクションが所狭しに並べられている。よく見れば東南アジアやハイチ、京劇や能で使われる仮面すら並んでいるものの、そのことをラングに指摘する者はいない。 
 気の抜けたステージの上ではアルトサックスを首から垂らしたイツホク・フェルドマンが紙巻煙草を吸っている。トビー・マカロックがウッドベースを抱きながら腕時計を見、腕を鼻先に近付けて
「質屋で一目見て、革バンドがヒップだと思ったんだが、いざ買ってみると臭いな。なんの革なんだ?」
 ドラム椅子に腰掛けているヘンリー・ハモンドが
「どこで買ったんだ?」
「ギュンターの店だよ」
 ニヤけ顔のハモンドが「フェルドマンのお仲間かもな」
 口笛を吹いたフェルドマンが「次におれの前でその手のジョークを言ったら、靴を食わせてやる」
 溜息をついたマカロックが「合成皮革か。ところでイーライの馬鹿は? トイレに入って、かれこれ三〇分は経ってる。あいつはステッキみたいに長い糞をするのか?」
 ハモンドが笑い、バスドラムを踏んだ。フェルドマンはおでこを撫で
「モンスターにメシを食わせているんだ」
「あいつ、ヘロインやるのか? 初耳だぞ?」
「自分からヘロイン中毒ですなんて言う奴はいないからな」
 苛ついた様子のハモンドが「ジャンキー野郎め。おれは明日も仕事なんだぞ」
 ハモンドはスネアドラムをロールさせながら
「イエロー・キャブに休みなしかい?」
「おかげさまでな。まったく、戦争が続いていれば、相変わらず軍隊バンドで暮らせたんだがな」
 煙を吐き出したフェルドマンが「すぐに次がある」

 トイレから出てきたイーライ・ウォーレンはフラつきながらピアノ椅子に腰掛けた。顔は恍惚としており、一生分の快楽をトイレで得たといった様子だった。舌打ちしたフェルドマンが
「セットの一曲目は『オール・ザ・シングス・ユー・アー』だ。イントロはバードのキックを使う」
「キーは?」
「ケツかい?」とハモンド。
「ドイツ気取りは虫唾が走る。Aフラットだ」
 フェルドマンが指でカウントすると、カロックがA、Aフラット、Dフラット、おなじみのキックが演奏され、ハモンドがキックに合わせる。しかし、奏されるべき和音はウォーレンが顔で弾いたクシシュトフ・ペンデレツキ風トーン・クラスター。演奏が止まり、近付いたフェルドマンがウォーレンの肩を揺さぶった。
「マカロック、車を出せるか?」とフェルドマン。
「会社に行けばな」
「なら、救急車を呼んだほうが良さそうだ。天国に行ったきりだ」
 マカロックはウッドベースを寝かし、トイレの向かいにある電話ボックスに駆け込むとコインを投げ入れた。フェルドマンはカウンター席に腰を下ろし、バーテンのショーン・ギブスンに向かって言う。
「ウィスキーを」
「飲み方は?」
「なんでもいい。ギブスン、看板をトリオに書き直しておいてくれ」
「やっておきます。穴を開けたらテオがカンカンになりますからね」
「テオに逆らうほど馬鹿じゃない。ギブスン、シェマを知っているか?」
「さぁ? なんです?」
「死ぬ時に唱えると天国に行けるんだ」


『ロクス・ソルス』という同人小説サークルで活動しています。それから、ジャズピアノの演奏活動をしています。気が向くと絵を描いたりします。
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