イシュマエル・ノヴォーク

コイディシュ・ブッフ

第11話: ゲツルとギンプル

イシュマエル・ノヴォーク書いた人: イシュマエル・ノヴォーク, 投稿日時: 2020.07.25

 部屋は彼が所有する本で溢れ返っている。これらはぼくたちの言葉で書いた作家のものばかり。ショレム・アレイヘム、メンゲレ・スフォリム、イツホク・ジンゲル、ドヴィド・ピンスキ、レオ・ロステン、ペレツ・マルキシュ、ヨゼフ・オパトシュ。これらはぱっと目に入るもので、しかも、ぼくが名前ぐらいは知っているものだけ。見たことも聞いたこともない名前が並んでいると、どうにも奇妙な感じがする。
 ベッドに寝転がって本を広げているギンプルは丸眼鏡を触るとページをめくった。ぼくより六つ年上のギンプルはフォアヴェルツ紙のタイプライター職人。西部劇風に言えば「早撃ちのギンプル」といったところだろう。彼は海を渡ってから知った英語を家族の誰よりも早く覚えて通訳を引き受けた。彼はヘデルに通ったこともないのにトーラーを暗誦している。タルムードの討議に関してはラビ顔負け。どうして、彼はラビを目指さなかったのだろう? ぼくはと言えば、未だにラビの道を諦めきれずにいるのに。
「知っているかい? ラビ、マシュベルが亡くなったそうだよ」
 ギンプルは本を閉じると枕元に置いて「知っているよ」
「そうなんだ。葬儀でひと悶着あったらしい」
 ギンプルは丸眼鏡を触り「どんなことがあったのかな?」
「聞いた話だけど、喧嘩だってさ」
「君は参列したんじゃないの?」
「したよ。でも、そんなものは見なかった。噂じゃあ、カウボーイが喧嘩したとか」
「サウス・ブロンクスにカウボーイはいないよ」
「ここで牛を飼っている人はいないだろうけれど、見たっていう人がいるんだ。喪服姿でフェルト帽をかぶっていて、車輪がついたブーツを履いていて……おまけに腰から鞭をぶら下げていたんだってさ」
「君、からかわれているんだよ」
「嘘を言う人じゃないと思う」
「そう? なら、ぼくも見たかったね」
「でも、今の時代にカウボーイなんているのかな? 時代遅れな気がするね」
 顎に手をあてたギンプルが
「ゲール(寄留者)を愛しなさい。あなたたちはエジプトにおいてゲールだったのだから」
「ぼくたちはニューヨークでもゲールかな?」
「ゲールはぼくたちだけじゃない。この星に住む者全てがゲールと呼んでいいだろうね」
「でも、ユダヤ教徒じゃない」
「些末なことだよ」
 会話が途切れ、沈黙が訪れる。ぼくは沈黙を追い払うように口を開く。
「そうだ。ギンプル、リリっていう娘を知っているかい? 最近、知り合った娘なんだ。遅くまでザベルの店にいたらザベルに送っていくように言われて、ここの前まで来たんだ」
「このアパートに住んでいるリリならイズレイル・クヴィトコの娘だね。多分、君より一つか二つ年上」
「どうして彼女の年齢を知っているんだい? 彼女は君を知らないようだったけど?」
「多分、君はこう思っているんだろう。ぼくとイズレイルの娘が深い仲なんじゃないかって」
「そうは言ってない。不思議に思ったんだ」
「同じアパートに住んでいるんだ。会えば挨拶するし、お喋りぐらいはするよ。お互いゲールなのだし。彼女がどうして知らないと言ったのかはわからない。知り合ってばかりの男に色々と知られるのは嫌だったのかもね。ワルシャワの街角なら、会ったばかりでもお互いのことを話しただろう。でも、ここは自由の国。いささか窮屈と感じるけれどね」
 ギンプルは丸眼鏡を外し、頭の後ろに両手を回した。仮眠の準備だ。
「鍵はそのままでいいよ。盗むものなんてないのだから」とギンプル。
「本がある。高価なんだろう?」
「イディッシュ語が読める泥棒なら歓迎しよう」
 ギンプルは目を瞑り、すぐに規則正しい寝息が聞こえてきた。ぼくは「グート・ナハト(おやすみ)」と言って椅子から立ち上がると部屋を出た。

 廊下を歩き、階段を下りる。中庭を横切っていると雑然と生えたシュロと、ベンチに座ってギターを爪弾く男が見えた。男はギターに覆いかぶさるように背を丸めている。男がか細い声のリトアニア訛りのイディッシュ語で「家、天使、土くれ」と歌うのが聞こえた。


『ロクス・ソルス』という同人小説サークルで活動しています。それから、ジャズピアノの演奏活動をしています。気が向くと絵を描いたりします。
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