コイディシュ・ブッフ
第10話: 小麦人形
アスネの額から汗が滴り落ち、 六芒星の汗が生地に練り込まれた。 その様子を後ろで見ていた亭主のベリルは綺麗に剃られた口髭を一撫でするなり
「ネショメーニュ (わがたましい)、 ご機嫌いかが?」 と言ってアスネの腰を人差し指で突いた。 驚いたアスネは生地から手を放し、 振り向くなり
「飲んだくれは邪魔しないでくださいな」
ベリルは赤い鼻を鈴でも弾くように触ると
「ネショメーニュ、 これは酔った演技ですよ。 ですから、 酔ってなんかいないんです。 舞台の上で酒に酔うなんて、 真っ当な役者のやることじゃあありませんからね」
そう言ってベリルは笑顔を浮かべ、 一本欠けた上の前歯を見せた。
「酒臭い息を吹きかけないでくださいな。 まったく……いい加減、 役者なんて言っていないで、 少しは手伝ったらどうです?」
喜劇役者のように両手をブラつかせたベリルが 「そうは言いますがね。 先日、 ケシの実を焼いたら、 こんな真っ黒なゴマみたいなもの、 誰が買うんです? と言ったのは奥さんじゃあありませんか」
「そりゃそうですよ。 あんなもの売り物になりませんからね」
「つまり、 そういうものですよ」
「何がです?」
「今の私はそういうものなんです。 ですが、 ネショメーニュ。 今の私がこんなものだからといって、 明日、 明後日、 一年後もこうだとは限りませんよ? ブロードウェイの舞台で腹を抱えて笑った観客たちが、 陸に上がった魚みたいに口をパクつかせてコキュウコンナンで病院に担ぎ込まれるかも知れませんし。 よしんば、 それでチッソクしたって本望ってものでしょう? もっと先になれば、 笑い転げた天使が喇叭を放り出して一緒にダンスするかも知れません。 こんな具合にね」
ベリルは手足をバタつかせる。 さながら、 下手糞な糸人形のように。 喉ぼとけを触ったベリルが歌い出す。
「こね、 こね、 こね。 生地をこねれば命が宿り、 これにはラビも真っ青。 天使はカンカン踊りで足をあげ、 悪魔は穴の中。 物憂げ顔のネショメーニュ、 笑えば大地に花が咲く!」
ベリルはアスネのがっしりした腰に手を回し
「右足あげて、 左足あげて。 左足さげないで右足あげればお天道様に近付き、 天使が笑う。 さぁ、 さぁ、 さぁ!」
「まったく、 どうして神さまはお酒なんてものをお与えなすったのかねぇ」
「こね、 こね、 こね。 さぁさぁ、 ここで回って」
ドアが開き、 街角で新聞を売る少年、 シュアハが入って来た。 シュアハはブカブカのキャスケット帽をなおし
「黒パン一つちょうだい」
アスネはベリルの手を払いのけ 「こんにちは、 シュアハ。 黒パンなら今朝、 売り切れちゃったの」
シュアハが俯くとキャスケット帽がずり下がった。 シュアハは帽子をなおし 「じゃあ、 また来るよ」 と言ってドアを開けた。 アスネが
「代わりと言ってはアレですけど、 白パンはいかが? 今さっき焼いたばかりですよ?」
「そんなにお金ない」
腰に手をあてたアスネが 「なら、 明日は新聞をウチに持ってくること。 それで今日は黒パンの料金で白パン一つ。 それでどうです?」
いぶかしんだ様子のシュアハが 「サガクは?」
「配達代ってことでどうです?」
頷いたシュアハはポケットから煤けた小銭をとり出し、 背伸びして台の上に置いた。 アスネは数日前の新聞紙に白パンを包んで差し出した。 受け取ったシュアハが 「ありがと」 と言い、 再びずり下がったキャスケット帽をなおした。 シュアハはドアを開け、 勢いよく飛び出して行った。
ベリルが 「ネショメーニュは神さまもビックリするほど、 粋な女房さ!」
椅子に腰掛けたアスネが天井を見上げて
「ゲツルもあれぐらいの時は可愛かったんですけどねぇ」
「ゲツルは神さまにお熱なのさ。 それこそ、 おれがネショメーニュに首ったけみたいに」
「あたしは、 あの子にラビになんてなって欲しいなんて思っていませんよ。 もちろん、 役者も御法度ですけどね」
ベリルは皺の寄った額を右手で叩くと 「お疲れですね? ネショメーニュ。 一丁、 パン生地でもこねてやりますから、 そこで座って見ていて下さいよ」
そう言って腕まくりしたベリルは手を洗い、 生地に手を突っ込んだ。
「さぁ、 さぁ、 生地さん。 これからこねますからね? このベリルの手にかかっちゃぁ、 生地さんもホウフクゼットウ。 額に真理と書けば、 こいつで完成」
「あんまり力むと腰を悪くしますよ? 舞台に立てなくなったりしたら、 どうするんです?」
「その時は代わりにこいつを舞台に立たせましょう。 小麦人形の大砲、 綱渡りに火のくぐり! ですから、 あんまり火を通し過ぎないようにしないといけませんね」
呆れた顔のアスネが 「また、 そんなこと言って」
「さぁ、 こね、 こね、 こね!」
ベリルが酒臭いルーアハを吹きつけた。