イシュマエル・ノヴォーク

コイディシュ・ブッフ

第9話: 摩天楼のシュテートル

イシュマエル・ノヴォーク書いた人: イシュマエル・ノヴォーク, 投稿日時: 2020.07.25

 一九三九年の一〇月の夜。私と二つ年下の弟、ユゼフが部屋で眠っているとドアが激しく叩かれた。誰がドアを叩いているかは顔を見なくてもわかった。私たちは上着を着ると窓を開け、窓枠を大道芸人のようにつたって地面に下りると走り出した。向かうべき場所はわからなかったが、捕まればどうなるかわかっていた。愛したワルシャワの顔は別のものになったのだ。
 
 私は走った。迷路のように入り組んだ細い路地を。壁をよじ登り、生垣を飛び越えた。
 息を切らせた私が振り返った時、ユゼフの姿はなかった。

 ニューヨーク、フォアヴェルツ紙のデスクがあるビルの前に着いたのは昼の一時を少し過ぎた頃だった。二頭船室にすし詰めになりながら到着したアメリカ、英語が喋れずに右往左往していた当時の私に仕事をくれたのは、記者をしていたボリス・ミジェレツキだった。それまで慣れ親しんだイディッシュ語で文字を書くことができるという幸福は代え難かった。結局はそんなことはできなかったにせよ、狂気が私たち、私たちの言葉をこの世から消し去ろうとしたのだから。人は言葉に依拠している。依存していると言っていいだろう。言葉を奪われた時、精神は成立しない。今や英語が地上を征服しつつある。かつてのラテン語のように。

 エレベーターを使い、廊下を歩く。開け放たれたドアをすり抜けるとタイプを打つ音、記者たちのお喋り、天井でヘビのようにとぐろを巻いた紫煙。すべてが懐かしかった。私を不審に思ったのだろう、タイプを打つ青年が
「何か御用ですか?」と尋ねたので、私は
「ボリスに会いに来たんだ。ドヴィド・ヘルツォーク。一〇年ほど前までここで仕事をしていたんだ」と答えた。青年はしげしげと私の顔を見た。不躾な態度ではあったものの不快ではない。青年は髭を生やしておらず、あどけなさすら残している。私のほうは、すっかり頭髪が寂しい限りだ。
「編集長は奥の部屋です」
「ありがとう。君、名前は?」
「シャバタイ・ギンプルです」
「ありがとう、ギンプル」
 ギンプルは素っ気ない態度で
「えぇ、どうも。ヘルツォークさん」と言うと、タイプを打ちはじめた。私はかつて記者だった頃のように歩き、最奥のドアをノックした。「どうぞ」という声が聞こえたのでドアを開けると、木製のいかめしい机の上で書類が山を作っていた。椅子に腰掛けているのはボリス・ミジェレツキ。ボリスは巨体を揺らしながら立ち上がると
「ドヴィド! 突然、現れるものは大抵、ロクなものじゃないが、今日は特別だな!」
 ボリスは手を差し出し、私は彼の厚ぼったい手を握った。
「調子はどうだい?」
「デスクワークばかりをしていると太るんだ。食事は済ませたか?」
「三時にはサンディエゴ行きの列車に乗らなくちゃいけないんだ」
 ボリスは「残念だ」と言い、内線電話の受話器をとると「至急、コーヒーを二つ持って来てくれ」と言って受話器を置いた。
「いくらなんでも、コーヒーぐらい飲む時間はあるだろう?」
「もちろん」
 五分ほどすると秘書の女性がトレイにコーヒーをのせてやってきた。私はカップを受け取り、礼を言った。女性が部屋を去るとボリスは机の引き出しから葉巻を引っ張り出し、吸い口をペンナイフで切り落とす。マッチを擦り、指ほどの太さの葉巻の足を炙りながら葉巻を転がし、煙がもうもうと立ち上っていく。ボリスが言う。
「美味いコーヒーだ。冷めないうちに飲んでくれ。豆は南アフリカのベルゲンソンから取り寄せたんだ」
「彼は元気なのかい?」
 ボリスは肉がついて弛んだ首を横に振り「少し前にポックリ逝っちまった。今は倅がやっている」
「残念だ」
「あぁ……ところで、図書賞を受賞したようだな」
「読んでくれたのかい?」
「いい出来だった。帰ったような気がしたよ。ウチで連載して欲しかったぐらいだ。おやじさんとおふくろさん、弟の行方はわかったのか?」
「三人とも別の収容所で亡くなっていた。去年、ようやく知ることができた」
 ボリスの葉巻から出る青と白の煙が交差しながら立ち上っていく。彼は何とも言えない顔をしていた。
「知っているか? ウチの発行部数は右肩下がりだっていうことを。この国で暮らすには英語が喋れればそれで足りると考えている連中が増えているんだ。ウチも英語版を出すか検討しているぐらいだ。まったく、信じられんよ。ドヴィド、お前は英語で書いているが、どうしてだ? イディッシュが消えていいのか?」
「君から一〇年前に同じ質問をされた。その時の答えは」
「英語のほうが広く読まれるから、だったな」
「あぁ」
「あの時も今も、らしい答えだと思ったよ。合理的だしな。でも、わかるだろう? このままイディッシュが消えていくのを黙って見ているなんて、薄汚い協力者どもと一緒じゃないか」
「イディッシュは消えない」
 ボリスは鼻で笑い「それを、英語で書いているお前が言うのか?」
「あぁ。イディッシュで考えない日が多くなったとはいえ、それでも消えてなくなりはしない。神を信じることは三九年にやめたが、それでも魂が呼んでいると感じるんだ」
「神秘主義者になったのか?」
「かも知れないね」
 コーヒーを飲み終えた私はボリスの机の上にカップを置いた。
「もう行くのか?」
「すまない。三時の列車に乗り遅れるわけにはいかなくてね」
「サンディエゴに何をしに行くんだ?」
「講演があるんだ」
「そうか。機会があったらまた寄ってくれ。その時、まだウチが潰れていなければな」
「どんなものも消える運命にある。しかし、宇宙を漂うイディッシュは不滅だ」
 私とボリスは握手を交わした。部屋を出ると秘書の女性と目が合ったので、コーヒーの礼を言った。女性は近付いてくると
「もしかして、ドヴィド・ヘルツォークさん?」
「えぇ」
「私、あなたの『花のシュテートル』を読みましたの。素晴らしい小説でしたわ。シュテートル出身の祖父なんて涙を流していましたわ」
「ありがとう」
「次は何を書かれるんですの?」
「まだ考えているところだよ」
「もし良かったら、夕食でもいかがです? 美味しいお店を知っているんですの」
「折角のお誘いだけれど、サンディエゴに行かなきゃいけないんだ」
 彼女は残念そうな顔で「そう」と言った。
「また寄るよ。君、名前は?」
「ヘネレです」
「いい名前だ。それじゃあ」

 すっかり長居してしまったが、列車には間に合うだろうか? それならそれで構わない。両親とユゼフが列車に乗って帰ってこなかったように、私もどこかへ連れて行かれるしかないのだから。


『ロクス・ソルス』という同人小説サークルで活動しています。それから、ジャズピアノの演奏活動をしています。気が向くと絵を描いたりします。
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