イシュマエル・ノヴォーク

コイディシュ・ブッフ

第6話: ボタンかがり

イシュマエル・ノヴォーク書いた人: イシュマエル・ノヴォーク, 投稿日時: 2020.07.10

 ザベルのカフェに来るのは好き。
 料理は凄く美味しいわけじゃないし、コーヒーがぬるくなっているのも、三回の注文のうち、二回ぐらいはだけど。それでも好き。
 カフェに来るのはポーランド、リトアニア、ハンガリー、ウクライナ、ロシアから来た人たち。たまにイスラエルから来たという人もいるけれど、大抵は一回こっきりで姿を見せなくなる。仕事で来たのかしら? それとも、家族に会いに?

 エッグタルト、コーヒー、サッカリンはスプーン一杯。

 色んな人たちのお喋りが聞こえる。訛りはあるけれど、耳馴染みのある言葉。もうワルシャワに家はないし、あそこに暮らしていた人たちは一人も住んでいない。みんな、遠くに行ったか、ミミズみたいに圧し潰された。あたしたちが暮らした家はまだあるのかしら? 多分、ない。キレイなものを欲しがる人は山ほどいるでしょうけれど、あたしが暮らした家みたいなものを欲しがる人はあんまりいないもの。家やモノがあるみたいに人や言葉がある。逆かしら?
 モノは言葉を喋るって言ったのは、占い好きのブレイネだった。ブレイネが言うには、モノの言葉はあたしたちの耳には聞こえないけれど、感じてはいるんだって。モノの言葉をあたしたちが感じ取ることができるのなら、あたしたちの言葉だってモノは感じていることになるはず。お互いに影響がある。もし、あの家がまだあって、誰か別の人が暮らしているとしたら、あたしたちみたいになる?

 ライスプディング、ぬるいコーヒー。二杯目は、サッカリンは入れない。

 広げた新聞を読む。この新聞はあたしたちの言葉で書かれている。ソール・ペローのインタビューが載っているけれど、あたしはペローが有名な作家ということしか知らない。でも、ペローはあたしのことを知らないのだから、お相子。

 カフェにいるのはお年寄りばかり。多分、家族がもういない人たち。ドアを開けた瞬間、皆、悲しそうな顔をしているもの。カフェの床を一歩踏んで、まわりの人たちの顔を見るとようやく晴れた顔になる。イディッシュ語で歌ったり、口喧嘩したり、ちょっと下品な話もちらほら。

 コーヒーを飲み終えたあたしが席を立つとザベルが近付いてくる。ザベルは伝票をテーブルに置いて、あたしは伝票の上にお金を置く。ザベルには指先がない。ラーゲリで凍傷にかかったから。

「リリ、仕事はどうだい?」
「まずまずよ。皆、ボタンをどっかに落としちゃうみたいね」
「落としちまうのはボタンだけじゃない」
「どういう意味?」
「意味なんてないさ。商売が繁盛しているのなら万事快調。とはいえ、リリ、気を付けるんだよ」
「えぇ、ありがとう。じゃあね」

 アパートであたしを待っているのはボタンのない服。一体、ボタンたちはどこに消えたのかしら? はじめは地面、次は排水口。ネズミが齧って、浮き輪がわりに遊んで、やがて海。いずれ、ボタンの島が生まれる。そこで、魂だけになったあたしたちは屈んでボタンを探す羽目になる。昼となく、夜となく。


『ロクス・ソルス』という同人小説サークルで活動しています。それから、ジャズピアノの演奏活動をしています。気が向くと絵を描いたりします。
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