杜 昌彦

D.I.Y.出版日誌

連載第261回: 七ヶ月ぶりに床屋へ行った

杜 昌彦書いた人: 杜 昌彦, タグ:
2020.
07.10Fri

七ヶ月ぶりに床屋へ行った

WordPress更新のせいかjQueryの問合せフォームが動作しなくなっていた。復旧前に幾人かにご利用いただいた可能性がある。もしお問合せいただいていたらすみません。あなたの言葉はわたしに届いていません。お手数ですが再度お試し頂けますか。お客様を迎えるため動作速度が気になりはじめた。表示が糞重いせいでせっかくの傑作が読まれなかったら悔しい。もとはSyntaxという簡素なテーマだった。数年にわたり魔改造してさまざまな機能を実現した。創業以来、継ぎ足し継ぎ足しのいわゆる「秘伝のソース」。CSSは原稿用紙換算で四百枚もあった。コマンドラインツールで重複箇所を探した。百枚は削った。強迫神経症めいた気の滅入る作業だった。ユーザ体験がまともに機能するよう削るのは小説とおなじ。異なるのは達成感だ。PHPやHTMLやCSSを弄るほうが成果が見えるだけましだ。テトリスがPTSD克服に役立つとの実験結果があるそうだが似たようなものか。小説はどれだけの傑作をものしたところで書いた人間がわたしであるかぎり糞を拭く役にも立たない。嘘だと思ったら『ぼっちの帝国』を読んでみたまえ。電子版ならたった99円。無料アプリを入れればお手持ちの携帯で読める。着眼点が近そうに思える人気小説の書評を読んだ。実物を読んでいないし読む気にもなれないが『ぼっち』の五番煎じくらいを三十年前の感性で書いた代物に思えた。だからこそ読まれるのかもしれないが、だとしてもやはり、もしもわたしが世渡り上手な定型発達者かサヴァン持ちだったなら『ぼっち』の評価はまるでちがっていたろう。人間は生まれ育った環境を自然と再構築する。世間的な評価は愛されて生まれ育ったものだけが独占する。どれだけ誠実に努力しようが逃れられないし這い上がれない。悔しいのか? いや、読者が損をしたと思うだけだ。読書をそのようなものにした責任は大手出版社にある。この二十年、彼らは差別主義者の幼稚なペドフィリアにばかり媚びてきた。書店はヘイト本とペド絵とソーシャルメディアのおこぼれで埋め尽くされた。おかげでこの国の読書はそのようなものと決まってしまい、読みたい本は出版されず図書館や古書店でしか出逢いがない。そのどちらにも疫病の流行以来とんとご無沙汰だ。抗おうにもわたしは所詮わたしでしかなく、何をやったところで蔑まれる以外の何も得られない。ご寄稿いただいた方々との連絡には主にtwitterのDMを利用している。前回も書いたがソーシャルメディアは鬼門だ。ついマウント合戦のタイムラインや減少するフォロワー数を気にしてしまう。世間と自分との落差に滅入るしかない。他人は他人であるがゆえに成功し賞賛される。わたしはわたしがわたしであるがゆえに批難され貶められる。ご寄稿いただいた方々はみなさんすばらしい才能の持主ばかりなのだが、無償であるにもかかわらず積極的に書いていただくにはわたしが一度死に、陽気で愉快で社交的で、だれからも好かれる人物に生まれ変わる必要があると感じる。わたしが評価されるべき人間でありさえすればその注目度や評価にともない、寄稿作品がふさわしい注目と評価を得られるだろう。しかし現実は彼ら自身の才覚で読まれるだけでわたしは何も貢献できない。『ぼっち』を書いていたときはここまで無力感に打ちのめされはしなかった。世間がどうであろうが価値のある仕事をしている実感があった。その錯覚はいまはもうない。無能がありのままに無能らしくのたうちまわるだけだ。『GONZO』は来月には再開するかもしれない。わざわざ恥をかくのに急ぐ必要はない。あれだけのことをやってだれにも相手にされなかった『ぼっち』と較べたら書く意味など微塵もない。


(もり まさひこ、1975年6月18日 -)著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、藤井太洋氏、十市社氏らによる指導を受けた『悪魔とドライヴ』が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。最新作は『ぼっちの帝国』。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。
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