うへ

大人って歯も上手く磨けない

連載第15回: 「染まるよ」で蘇る思い出。奈良で童貞を捨ててきた話(Part3)

うへ書いた人: うへ, 投稿日時: 2020.07.09

 彼女の名は「さやか」といった。平仮名で「さやか」。
 二週間後に会う約束を取り付けてからというもの、一日一日がひどく長く感じられた。お互い期待に胸を膨らませ、遠足前の子供でもこんなに前から喜ばないだろうというくらい高揚していた。

 だが気掛かりなこともいくつかあった。ひとつは、私は彼女に一度も顔を見せていないことだった。こちらはブログでコメントのやりとりを始める前から、(その真偽はともかく)顔を知っているわけだ。
 しかし反対に彼女は私の顔を知らない。どういうわけか、彼女は私の顔を見たいと一度言ったきり、その話を持ち出さなくなった。写真写りに自信のなかった私は、その理由を悟られぬよう断った。それ以来、彼女が私の顔写真を求めてくることはなくなった。
 それとなくその理由を尋ねてみると、「会うときの楽しみにしとく」と返された。それはそれで、なにかハードルが上がった気がしなくもないが、とりあえず、実際に対面するまでは「顔を見られて落胆される」という可能性が無くなったことに、少し安堵した。(童貞の喪失が現実味を帯びてきた)

「それに、うへちゃんがどんなに醜男でも、頭が禿上がってーても、あたしは気にせえへんで」
 それはないだろう。若干二十歳そこいらで「禿げ頭」というのは考えにくい。ただ前者の言葉はいたく私を慰めた。

 そしてもうひとつ気掛かりだったことは、ここ連日、彼女に執拗に絡んできていた男のことであった。
 曲がりなりにも、彼女はブログサイトのエロブログ部門一桁のカリスマ女王である。これまで彼女のことを、チェックしていたブログのファンは少なくないだろうし、初期の私とさやかとのブログ上でのやりとりを追い、付き合いだしたことを隠しもしない彼女の言動に、嫉妬を覚えたブログ読者である男は一人や二人ではなかっただろう。
 実際、いままで見向きもされていなかったと思っていた私のブログでさえ、「実はずっとあなたのブログを読んでました。好きです。彼女はビッチだから目を覚まして」という旨のDMが送られてきたりした。
 まあこんなものは、さやかのファンである男がなりすましたものである可能性が拭えないが、(といいつつ、当時の私はそれを私の隠れファンから届いたもので、「これはモテキの到来か?」と内心でほくそ笑んでいたのが実情だが)少なくとも、さやかのところには憎悪といっても差し支えのない嫉妬心を抱えた男たちが取り巻いていた。

 なかでも偏執的な男が一人いた。彼はさやかだけでなく、私にも憎悪の炎を燃やし、「住所を特定して、お前を殺す」といった悪ふざけにしては度の過ぎた文面のDMがいくつも送られてきた。
 私自身は匿名ブログであり、なにひとつ個人の情報へとつながるものはここに残していないため、さして気にも留めなかったが、彼女は事情が違う。
 彼女は顔も晒していれば、住んでいる県と、現在桜が綺麗なことで有名な町の茶屋で仕事をしていることを明け透けに語っていた。
 さらに困ったことに彼女は気が強く、口も達者であった。そして、怖いもの知らずだ。

「ムチャクチャにしてやる」
 捨て台詞とは思えない、そんな不穏な言葉を最後に、その男からの私への連絡は途絶えた。

 しかし、さやかの元には最近になって、「うへさんを奪われた」と怒っている女子高生からの誹謗中傷のDMが送られてきているという話を聞かされた。懐が深いというのかなんというのか、さやかはその相手に対して慈悲とも哀れみともつかぬ感情を呈し、これを可愛がった。
「高校二年生やて。わっかいな~」「ええ娘やで」などと流暢なことを言う彼女だったが、私は内心やぶさかではなかった。
 私は正直、彼女の警戒心のなさに心底呆れ、それを憎んだ。あの執拗な男からの連絡が途絶えたちょうどそのタイミングで、急にその娘が現れるなど、どう考えても女を装った罠だと思った。そのことを彼女に話し、もうその娘とは連絡をとらないでくれと頼んでも、「実際に話したから大丈夫やって。声、女の子やったもん」
 もう電話番号まで教えたのか――。私は絶句した。その娘は最初こそ敵意剥き出しだったが、次第に懐いてきており、「お姉さんと話してみたい」などと言われ、会う約束まで取り付けたのだという。
「仮に男だったとして、なにができんの?」「人気のない場所にはいかへんから」
 彼女はわかっているのだ。それが男である可能性についても。その上で会うと言っているのだ。
「人間てな、実際に話してみんとわからんもんやで」
 そんな台詞を吐く彼女を、いつもなら眩しいものを見るような目で見れていた。だが今は状況が違う。彼女は間違っている。嫌な予感しかしなかった。それは案の定、的中した。想像よりもずっと残酷な形で。

 初デートが翌週に迫った最初の休日。唐突に携帯の電話が鳴った。ディスプレイには「さやか」と表示されている。
 例の顛末がどうなったのか、その報告だろうかと急いで私が電話に出ると、見知らぬ男の声が荒い息遣いのまま、唐突に言い放った。
「ムチャクチャにしてやった」
 嗤っているとも自嘲しているともとれたその声の主が誰であるのかを、私は瞬時に悟った。
 男は続けざまになにかを言っていたが、私は最初の一言を聞いたあと、放心したまま恐怖心と怖いもの見たさという訳の分からぬ感情がごちゃまぜになって、一言もこちらから言葉を発することはできないまま、いつの間にか電話は切れていた。

 「レイプ」という単語と、「中出し」という単語は、卑猥な動画サイトでちらりとそのワードを視界の端に捉えたことこそあれど、そういったものに興味はなく、むしろそこに嗜癖しへきを見い出す者への嫌悪や気味悪さのほうが先立った。そして、そんなことが、自分に関与する現実で起きるなどということは、もちろん考えたこともなかった。
 あれから数時間。自分から電話を掛けるなど、できなかった。そもそも、いま自分がどんな気持ちでいるのかさえわからず、不規則な動悸と変な汗をかくばかりで、自分にかけてやる言葉さえ見つからなかったのだから。

 勇気を持って電話を掛けたのは、さやかのほうだった。数十秒の間、二人は無言だった。互いにいまの胸を埋め合わせる言葉など、持ち合わせていないのだろう。
 続いて彼女の嗚咽。いまにも消え入りそうな声で「……ごめんな、ごめんな」と繰り返した。それを聞いた私も落涙した。二人して受話器を耳に強く押し当てたまま、堰を切ったようにおいおいと泣いた。
 私には何が哀しかったのか、それを上手く言葉で言い当てることができない。もう七年も経つというのに。
 言葉にできない経験というのは、こうももどかしく、所在ないものなのかと思う。私はまだ、なぜか世間で生きる多くの人よりは、その心を言語化する能力に長けているという自負がある。
 だが、圧倒的マジョリティーである世間の人々は、苦痛を言葉に言い表すことができないのかと思うと、言葉ではなく暴力に頼る理由がわかるような気もする。

 男は周到だった。妹を使ってさやかを誘い出し、黒塗りのワゴン車に連れ込んだ。
 最初から襲う気があったわけではなく、穏便に話していたという。だが次第に偏狭な考えを吐露しはじめるにつけ、さやかが容赦なくその弱さを突いた。図星だったのだ。相手は癇癪を起こした。そんな話だった。

 とある状況のため、一息つくと冷静になったさやかは、覚悟を決めて話し出した。ある病気の治療のため、現在婦人科に通っていたこと。先生には「この期間は避妊してね」と釘をさされていたこと。
 今回のことで、緊急の治療費には十万円が必要だということ。一刻を争うこと。そしてその治療はホルモン剤の投与によって、体重が増え、今とは見た目が変わることを一気に話した。
「十万なんてないねん、旦那にも言えるわけない」「もうお水で稼ぐしかないねん」「はい、しゅうりょう~」
 彼女はきっと、本心からそう述べたのだろう。もう私たちの関係は終わったのだ、と。

「お金のことは心配せんでいいよ。何年かかってもいいし……あ、貸したお金はあげたと思え、って言葉もあるしね(笑)」
「汚らわしくないん? 見た目も変わるんよ?」
「そんなこと気にならんよ。それよりさやかの体が心配。とにかく会いたいわ」

 それは本心でもあった。だが当時の私が精一杯の見栄と体裁を、22歳にしては少なすぎる経験値を総動員して言ったこともまた事実だった。

「明日振り込んどくから、口座番号送っといて~」
 できるだけ相手が傷付かぬよう、軽い調子でそう言って電話を切った。

 奈良までの道のりは、とても長かった。色んな意味で。
 私たちはようやく落ち合った。長い二週間と、余分な10日ばかりが過ぎて。
 はじめての口づけは酸いでも甘いでもなく、何十年とかけて、彼女の肺を染め上げたであろう煙草の、とてもとても苦い味だった。と同時に、これほど人間の唇は、柔らかいものなのかと驚嘆し、これまでのことをすべて忘却し、清算しようとするかのように、私は隠れた憤りを彼女にぶつけるように、夢中になって吸い、噛んだ。
 見てくれはひどく変わってしまっていた。ほんとうはそのことも、受け入れられていなかった。だがそんな自分にも腹が立った。だから見ないようにした。自分の心が感じていることも、相手の姿さえも。それでも簡単にちんこは勃つのだな、とサボテン並みのIQになった頭の片隅で考えていた。

いつだって そばにいたかった
分かりたかった 満たしたかった
プカ プカ プカ プカ
煙が目に染みるよ 苦くて黒く染まるよ

チャットモンチー『染まるよ』


趣味でしかものを書いたことのない、名無しの素人エッセイスト(自称)。 この度、どういうわけか当サイト「人格OverDrive」の主宰者である杜 昌彦氏に「掲載してみませんか」とお誘いいただき、こちらに寄稿することに。 29年間、苦しそうなこと、辛そうなことから逃亡している人生。フリーター。 寄稿するジャンルは妄想エッセイ。虚実交えた物語を書いていきたいと思います。
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