杜 昌彦

D.I.Y.出版日誌

連載第260回: 書いても書かなくても生きられない

杜 昌彦書いた人: 杜 昌彦, タグ:
2020.
07.04Sat

書いても書かなくても生きられない

ソーシャルメディアは世渡りを得点化するヴィデオゲームの類いだ。薬物や賭博がそうであるように習慣性に訴えて商売する。依存性と社会性、ふたつの観点からわたしの発達特性によくない。避けるに越したことはないどころか全力で遠ざかるべきものだ。ところが出版(publish)とは公(public)にすることであり、その性質上、広く世間に認知されねばならず、よってソーシャルメディアは避けられない。ただ刷るだけではその本は存在し得ない。読まれることによって初めて出版したといえる。書くからには出版せねばならず、出版するからには人前に出ねばならない。ただ出るのではなく衆目を集めねばならない。ただでさえ適切にふるまえないのに、社会において他人よりも優れた能力を求められる。そこであえて社会倫理から目を背け、恥ずべき発達特性を暴走させて、あたかもその価値があるとでも思い込んだかのような厚顔で、招かれざる舞台にむりやり這い上がり、ブーイングや罵声を浴びながら、奇声をあげて全身にピーナッツバターを塗りたくり、ガラス片の上で転げ回らねばならない。それをやると実際に注文やKENPが発生するのだから避けようがない。祝福された定型発達者のようにはいかぬまでも、本来はゼロ値で横ばいであるはずのグラフが微動するのだ。書くからには出版せねばならない、大声で暴れて他人に絡まねばならない、しかしそもそも社会に害をなしてまで書く価値はあるのか。そこまでせねばならぬ時点でそれは書かれるべきではないのでは。人間の価値はあらかじめ、生まれ持った資質と生育環境で選別される。価値ある人間がその本性に従って働くから、あるべき評価を受けるのだ。そうでないところに無理を通せば惨めでしかない。無能はただ黙ればよいではないか。何かひとつでも得をするのならよいが、何ヶ月も何年もつらい苦労をしたあげくに無能を意識させられるのでは、惨めさが募るばかりだ。やめようにもやめ方がわからない。ほかにどうしたらよいかわからず書いてきた。これもまたわが発達特性の地獄だ。『GONZO』は『ぼっちの帝国』と較べればゴミ以下で、それがわかっているので幸か不幸か書く気になれない。しかしいったん手をつけたものを中途で放り出すのも癪だ。ソーシャルメディアは告知程度の使い方にとどめた。あんのじょうKENPは落ちたが『GONZO』をやりだしてから注文は増えている。寄稿作品のおかげで集客ができるようになり、浅ましくもおこぼれに預かってわずかながらコンバージョンにつなげられた。泥棒のような運用だがたいして儲かってはいないのでご容赦願いたい。ゴミを掴まされたと憤られ低評価レビューがつくのではとそれだけが気がかりだ。問題は参加者とのやりとりで、忌避すべきソーシャルメディアのダイレクトメッセージ機能に頼らざるを得ない。サイト自体にその機能を実装しようとあれこれ試したが、即時的なやりとりに適したUIはどうしても実現できない。いっそサイト自体をソーシャルメディアにしてしまう手もあるのだが運用目的がぼやける。人格OverDriveは交流を目的としない。書き手に発表の場を、読者に作品を提供するのが目的だ。プライヴェートメッセージ機能はそのための手段でしかなく、目的達成に特化したUIでなければならない。そのことに加えて、慣れ親しんだ既存のソーシャルメディアがあるのにわざわざ別のものを使わされる利点は参加者にない。それで結局ソーシャルメディアに立ち戻らざるを得ず、やりとりのために画面をひらけばどうしてもタイムラインが気になって、華やかな世間との落差に無能を噛み締めるはめになる。


(もり まさひこ、1975年6月18日 -)著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、藤井太洋氏、十市社氏らによる指導を受けた『悪魔とドライヴ』が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。最新作は『ぼっちの帝国』。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。
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