イシュマエル・ノヴォーク

コイディシュ・ブッフ

第5話: バップ・カバラ

イシュマエル・ノヴォーク書いた人: イシュマエル・ノヴォーク, 投稿日時: 2020.07.03

 サウス・ブロンクス地区の〈骨折アパート〉と呼ばれる前世紀に建てられたアパートの一室でイツホク・フェルドマンは苦虫を噛み潰したような顔で紙巻煙草を吸っている。やがて、煙草を吸い終えたフェルドマンは鞄に譜面を放り込み、アルトサックスを肩から下げて部屋を出た。

 フェルドマンがアルトサックスに目覚めたのは今から一〇年ほど前の一九四八年のこと。きっかけは学業をサボり、ハーレム地区のクラブ、〈ミントンズ・プレイハウス〉で観たチャーリー・パーカー。フレーズは矢のように速く、正確無比。フェルドマンはチャーリー・パーカーの演奏をモーセ五書と同種に感じた。
 次の朝、質屋のドヴィドが眠たい目を擦っていると、血走った目のフェルドマンはくすねた金でアルトサックスを買った。帰りの道すがらフェルドマンはチャーリー・パーカーが吹き込んだレコードを一枚買い、家で流し続けた。マウスピースに息を吹き込み、ボタンがどの音と対応しているかすら知らないフェルドマンだったが、ひたすら息を吹き込んで音を出していく日々が続いた。やがて、フェルドマンの演奏がチャーリー・パーカーと同じものになった。ナット・ヘントフのように耳の肥えた聴取者には、それはコピーでしかなかったが、それでもフェルドマンは満足だった。
 フェルドマンがアルトサックス片手にハーレム地区のクラブに出入りするようになったのは一九五〇年。初めてジャム・セッションで吹いた曲はチャーリー・パーカーの『ナウズ・ザ・タイム』  
 主な旋律はFとC、あるいはDから構成され、それはB♭、Bへと拡散、そして青みがかったフレーズに収束される。フェルドマンは自信タップリにパーカーと寸分違わぬプレイをした。おそらく、パーカーがサヴォイで吹き込んだものだ。今ではリーダーとしてバンドを率いるマイルス・デイビスが甲高い声で笑っていた、声を潰す前のレコーディング。
 ステージを下りたフェルドマンは、すっかり泡が消えたビールを飲み干すと満足気に息を吐いた。共演したベーシスト、トミー・ポッターそっくりの男が言う。
「ここは初めてか?」
「あぁ。それが?」
「演奏は悪くない。が、それだけだ。もし、次にステージで〈バード〉の真似しかしなかったら尻を蹴っ飛ばしてやる。覚えておけよ? 白いの」

 今日の仕事場に到着したフェルドマンはアルトサックスを慣れた手つきでケースからとり出した。すぐに他のメンバーたちが到着して準備をはじめる。ソフトケースからウッドベースをとり出したトビー・マカロックが「譜面は?」と言うと、フェルドマンが萎れた譜面をマカロックとドラマーのヘンリー・ハモンドに渡した。ハモンドはドラムセットではなく、鈴のないタンバリンを叩くことが不満らしく、「こんなのおれの仕事じゃない」と言った。フェルドマンが「なら、別の仕事を探せよ」と言うと、ハモンドは舌打ちした。フェルドマンが
「それでいい。今日はおめでたい日だからな」

 四本の柱、簡素な天蓋を家族や友人たちが支えている。アブラハムとセラ夫婦が客を招き入れたことの象徴であるフッパ。フッパの中では花婿が祈りの言葉を唱えている。花嫁と花嫁の母がやってきて、二人はフッパの周りを『創世記』になぞらえ七周回る。新しい世界が愛と理解から創造されるとラビがワインを注ぎ、神に感謝を捧げる。花婿から花嫁に指輪が渡され、二人は一つのグラスでワインを飲み干す。花婿がグラスを地面に落とし、右足で踏み潰す。
「マズルトフ」の言葉を合図にフェルドマンがマウスピースに息を吹き込んだ。アルトサックスは角笛であり、城壁は崩れ去る。なだれ込むフレーズは宿営の中、戦いの音。エイン・ソフ、バードから伝授された秘法、一〇の球と二二の小径。ジェリー・ボックが作曲した『サンライズ・サンセット』は即興的にハーモニーが複雑化され、ドミナントⅦは執拗にⅡⅤに変化させられる。

 自由、際限ない自由。

 仕事を終えたフェルドマンは金をマカロックとハモンド、きっちり三等分した。二人とも上機嫌な顔で金を受け取った。

 フェルドマンは通りに停めていた青いセダンに乗り込むと、助手席に座る、大学で人類学を専攻している南仏出身のシャルロット・フォンテーヌの首筋に吸い付いた。フォンテーヌが
「どうだった?」
「いつも通りだ。君は?」
「来月、ブラジルに行くことになった」
「ブラジルで何をするんだ?」
「ジャングルにナンビクワラ族っていう先住民が住んでいるの。彼らの刺青と氏族を調査するの。論文を書かなくちゃ。秋には戻ると思う」
 フェルドマンは曖昧にうなずき、頭の中で『アイ・ガット・リズム』のコード進行を高速で再生しながら前方を見つめる。

 街灯の上で羽を休めていた鳥が飛び立った。


『ロクス・ソルス』という同人小説サークルで活動しています。それから、ジャズピアノの演奏活動をしています。気が向くと絵を描いたりします。
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