杜 昌彦

GONZO

第2話: 調子はずれの闖入者/暗殺者

杜 昌彦書いた人: 杜 昌彦, 投稿日時: 2020.06.25

 自分でもちょっとおかしいのではないかと思うけれど、あのどこか焦点のずれた、本人を直接に知るわたしたちにとっては滑稽にさえ思える誘拐報道から、わたしは数十年ずっと彼の動向を追いつづけている。といっても勘違いしないでほしい。現実の彼がいまどこで何をしているのか、彼がほんとうはどんな人物であるかは何ひとつ知らない。わたしのいうのは彼について書かれた文章の多くを読んだということだ。
 これから語るのは彼や関係者に直接取材した事実ではない。実際に見聞きした記憶でさえない。わたしは彼について語られたものなら、出版された本ばかりではなくインターネット上のメディアや個人ブログ、ソーシャルメディアや匿名掲示板のたわごとに至るまで、知らぬものはないというほど偏執的に目を通している。それらから得た情報を再構成し妄想を働かせた産物にすぎない。
 あなたも十代の頃に夢中になったロック歌手に一生を囚われたりはしなかっただろうか。政治や人生について語るそのひとの言葉がなんとはなしに人生の指針になっていたりは? そう、わたしもあなたとおなじだ。彼にまつわる神話は抑圧された十代を過ごしたわたしの強迫観念オブセッションなのだ。
 繊細なる読者のあなたに忠告しておく。すべてを鵜呑みにはしないでほしい。わたしの妄想は度を超している。姫川尊の尊大な美しさはとりもなおさずそのアナロジーだ。何者でもないわたしはわたし自身を語るため、あの時代を生きただれもが知る事件の渦中にあった少年を生贄にする。彼が何を感じ、考え、どう生きたのかを記すのが本稿の目的ではない。これは彼を口実としたわたし自身の物語なのだ。語ることでわたしは彼の人生を生き、もうひとりのそうであったかもしれない彼となる。
 それゆえにこの物語は彼の日常からではなく、ありふれたわたしの朝からはじまる。その頃にはもう彼は学校に姿を見せなくなっていたし、わたしがじかに目にしたように思う記憶も、あとから書物で読んだ捏造かもしれない。ここで語られるすべてはそのような性質であることを気に留めてほしい。事実を語るのは高名なジャーナリストたちに任せておけばいい。それはわたしの仕事ではない。
 人間の死といえば幼少期、父の実家の奥座敷で酸っぱい臭いを放っていた曾祖父の最期くらいしか知らなかった十代のわたしが、鏑木紀一郎なる男が生きながら顔面をすり下ろされる音を聞いたあの爽やかな朝が、現実の記憶であったかは極めて怪しい。目を閉じればいまもあの音がまざまざとよみがえる。あの獣のようなくぐもった叫び、鮮血とともに撒き散らされる肉片、階段でリズミカルに弾む骨音。そして初秋の陽光が射す乗降場で、暴れ馬を楽しげに乗りこなすかのような肥った男。
 現実とは思えぬ光景だった。夢を見ているかのようだったし、数十年後のこの鮮やかな記憶はやはり夢だったのかもしれない。通学鞄に付着した肉片を同級生に指摘されるまで、何を見たのか理解できなかったのが昨朝のように思い出される。
 多くの文献に当たった旨を述べたけれど、だからといってそれらに書かれたすべてを正しく把握したわけではない。わたしはジャーナリストでもなければ歴史家でもない。政治経済の成績はいつも赤点だった。知能に至っては姫川尊の五分の一もない。鏑木の所属が正確にはいかなるものであったか正しい記述はできない。わたしたちの県の警察に特殊犯罪テロ対策課、なる部署がほんとうに存在したかもわからない。あえて書物を読み返して調べようとも思わない。事実を正確に記そうとすればするほどわたしの物語からは遠ざかる。書きたいのはわたしが知っていると思っていることだ。
 報じられた事実を調べたかぎりでは鏑木には前科があり、しかもそれは一度かぎりではなく幾度となく揉み消されていた。沖縄の洞窟ガマで軍隊が軍隊を守る組織でしかないのを証明したように、警察は往々にして市民を犠牲にしてまでも身内の犯罪を庇う。とりわけ世間一般において軽んじられる犯罪であればなおさらだ。そのような社会のありようを鏑木が利用したのは複数の書物で論じられている。その真偽を論ずるのはわたしの仕事ではない。語りたいのは何かを目論んだ結果として彼が惨殺された事実だ。
 彼が実際に何を目論んだか、はわたしの妄想でしかない。それは業務上の使命であったかもしれないし個人の妄執なり暴走なりであったかもしれない。事実として記録に残るのは日本人女性ならだれしも経験のある公共交通機関での性犯罪だ。鏑木はその役職を利用して罪を問われることから幾度となく逃れていた。一度など現場を押さえて捉えようとした一般市民の男を階段で突き落として重傷を負わせ、逃げおおせたともされる。判明している事実としてはそこまでだ。妄想の目でわたしが見たのはその先と背後にある。標的は幸いにしてわたしではなかった。
 幸いにして? わたしはそれを目の前で見ていたのだ。混み合う車内で数名は隔てていたけれど、同世代の彼女の身に何が起きているかは疑いようもなかった。大人たちのだれもが気づいていながら見て見ぬふりをした。いまも幾度となく夢に見る。声は上げられなかった。顔をすり下ろされる男と、その男の犯罪、どちらが悪夢をなさしめるかといえば圧倒的に後者だ。それは決して罪に問われることのない暴力の味を知る男の顔だった。すべての女性は彼の顔を知っている。そして多くの男は彼の顔を知るわたしたちの記憶を否定する。
 五十代で死んだ鏑木が実際にペドフィリアであったのかわたしは知らない。それは手段であったとわたしは推測する。しかし同時に本性でもあったかもしれない。この国の娯楽コンテンツに溢れる表現を見てみたまえ。はたして鏑木は特異な存在であろうか。たとえば人気女性アイドルが歌わされるのは彼女を搾取する高齢男性らにとって都合のいい妄想であり、ひとたび彼女がひとりの人間として政治的立場を表明すれば、国中から罵倒の嵐が沸き起こる。それがこの国だ。その唄を幸福な商品として消費するあなたは、鏑木のようではないと確信をもって断言できようか?
 鏑木のようでなかった青年がここに登場する。彼は鏑木の犯罪を見とがめ、腕をつかんで糾弾した。彼は出社が遅れるのも構わず、降りるはずではなかった駅で、体格のはるかに上まわる鏑木の高圧的な態度を物ともせず、引きずり降ろして駅員に通報しようとした。それが鏑木の策略であるとは夢想だにせずに。
 報じられた事実からも正義感の強い人物だったと窺い知れる。おなじ手口で殺害された男もまたそのような善人だった。わたしの見た男もまた事故を装ってあっさり殺されていたはずだったのだ。おそらくは過去の成功体験が着想の背景にあったのだろう。警官の高い身分が鏑木を守るはずだった。
 現実にはそうはならなかった。そうはならなかった事実がこの物語を調子はずれのものにする。一時は生命が危ぶまれた男は無事に生還した。生還しなかったのは鏑木だった。ありえない闖入者がすべてを台なしにしたのだ。その事実にわたしは強く惹きつけられる。それがなければ姫川尊は一連の事件のはじまりであっけなく惨殺されていたろうし、数十年後の同窓会で回想される彼の姿もまるで違ったものになっていた。
 お待ちかね、肥った殺し屋はここにおいて初めて登場する。


(もり まさひこ、1975年6月18日 -)著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、藤井太洋氏、十市社氏らによる指導を受けた『悪魔とドライヴ』が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。最新作は『ぼっちの帝国』。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。
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