イシュマエル・ノヴォーク

コーヒーとサッカリン

- 第2夜 -

イシュマエル・ノヴォーク書いた人: イシュマエル・ノヴォーク, 投稿日時: 2020.06.21

 カフェにやってくるなり彼女はコーヒーを注文し、折り畳んでいた新聞を広げた。
 新聞は〈フォアヴェルツ〉、ぼくは、この新聞について知っている。
 デスクで年寄りみたいに身体を丸めてタイプするギンプルほどでないけれど。

 知るという言葉は不思議だ。知っていると思った瞬間に知らないような気がするから。ぼくは彼女の名前を知らない。彼女がボタンかがりの仕事をしていることを知ったのは、偶然、耳にしたから。どうして名前のほうを知ることができないのだろう?
 多分、彼女はリトアニアかウクライナの生まれだ。ここに来るのは同胞たちしかいないのだし。彼女はぼくたちと同じようにポグロムを逃れてやってきた一人で、兄や姉、弟や妹がいない一人娘だ。大切に育てられたといった感じがするから。

 給仕のザベルがクロスに敷かれたテーブルにコーヒーを置いて、彼女と他愛のないお喋りをする。ザベルの言葉はドイツ語に近すぎる。耳障りですらある。
 
 ぼくたちの言葉は流浪している。エルサレムに行けばどうなるのだろう? どうもしない。ヘブライのベートの中に埋もれてしまうだけ。それは自身を否定してしまうことなのではないだろうか?

 彼女がコーヒーにサッカリンを入れて飲む。

 ライスプディングを食べ終えたぼくは勘定を済ませてザベルにチップを渡した。ザベルとお喋りしながら外套の襟を直すと帽子をかぶる。店を出るなり、ぼくは窓ガラスで確認する。

「グート・シャベス」(よい安息日を)


『ロクス・ソルス』という同人小説サークルで活動しています。それから、ジャズピアノの演奏活動をしています。気が向くと絵を描いたりします。
amazon