コイディシュ・ブッフ
第1話: イディッシュ語新聞ができるまで
デスクには書類が山のように積まれている。
黙々とタイプを打つシャバタイ・ギンプルは二五歳になったばかりの青年だが、 まめまめしい性格で仕事ぶりは既に老練の域に達している。
休みになれば、 ギンプルは友人たちと律法について話し合い、 その中で敬虔さが研ぎ澄まされていくように感じる。
ギンプルの敬虔さ、 信心深さは両親譲りで、 信仰に対するある種の頑迷さはドイツ的だ。
一〇歳の時、 ギンプルは両親と共にニュー・イングランドにやってきた。 彼は船を降りて見たチェサピーク湾を 『出エジプト記』 になぞる。 この時、 彼らの首からは 〈私たちは英語がわかりません〉 と書かれた板が垂れ下がっていた。 この板は船内で知り合った 〈ワルシャワっ子〉 と名乗る親切な同胞が書いてくれたものだ。
その後、 瞬く間に英語を覚えたギンプルは、 未だに英語の覚束ない両親や同胞たちのために通訳をかってでた。 その中には難しい法律用語が散見する契約書もあれば、 ユダヤ教徒にとっては相応しくない内容のものも含まれていたものの、 ギンプルはそれらを丁寧で平易な文体で翻訳した。
彼はこれらの仕事を適正な価格で提供した。 信頼と金銭は心の秤なのだから。
ギンプルはボルチモア大学で奨学金を取得し、 経済を学んだ。 父親のアブハウはギンプルが繊維工場を経営する親戚、 ゲルショムの片腕になることを期待していたが、 ギンプルにはいささか秘教的傾向があった。
大学を卒業したギンプルは糸に手繰られるようにニューヨークに移り住んだ。 ニューヨークで得た仕事はエイブラハム・カーハンが一八九七年に創刊した 『前進』 紙の編集デスク。
(フォアヴェルツ、 なんて美しい言葉なのだろう? フォーワード、 カディマに比べて口語的で力強く、 話し掛けるための響きだ。 地上にいる人々、 ぼく、 ぼく以外の誰か。 目に見えない人々が囁き合うためにある言葉だ)
「あの件はどうなった?」
「前回の律法学者のコラム、 あれは最低だったな。 まるで中身がなかった。 どうして編集長はあんな奴の記事を載せたんだ? あんなものじゃ、 読者に鼻で笑われるのが関の山だ」
「カフェに来る、 ボタンかがりの娘を知っている? そう、 短い髪をした。 コーヒーにサッカリンをいれて飲む娘だよ」
「ねぇ、 食事はどうする? サージの店でどうかな?」
「もしもし? その件は、 もうちょっとしたらですね……えぇ、 そう。 だから大丈夫ですよ」
「その髭面、 もう少しマシな髭剃りを買ったらどうだ? 向かいの店がいいぞ? あいつはポーランド人だが、 いい腕だ。 眠ったからって剃刀を真横にして掻き切ったりしない」
「そうなんだ。 まったく、 プリム祭の鳴り物みたいにやかましい連中だよ」
「広告に金をかけるんだ。 金に糸目をつけちゃいかん。 人手に金を惜しんでもいいが、 広告に金を惜しんでは駄目だ。 我々の敵はどうやった? 奴は悪魔だって裸足で逃げ出すような非道なことをした。 奴のやり方はどうだ? 中身のない、 虚ろな連中の心を掴んで離さなかっただろう? つまり、 広告だ。 広告こそが時代の鍵だ。 広告を制する者が世界を制する。 わかったら、 次は一面でぶち抜け」
ギンプルはタイプライターから吐き出された紙を慎重に千切るとクリップでとめ、 トレイにのせた。
「おしまい。 あとはよろしく」