杜 昌彦

D.I.Y.出版日誌

連載第256回: 読んだだけ、学問は知らない

杜 昌彦書いた人: 杜 昌彦, タグ:
2020.
06.13Sat

読んだだけ、学問は知らない

学問とは無縁だしなんなら知的障害もある他人から笑われるような読み方しかしていない定型発達者があたりまえに理解できることやっていることをどうしても理解できなかったりやれなかったりする脳みそがちゃんとしていたらいろんな可能性が広がって人生はすてきだったろうなぁと思うでもいまはばかなりに幸福だ幸福の秘訣はウィスキーです下戸なのでわずかの酒で泥酔できるいつものように酩酊しているとピンチョンがナボコフの講義を受けてたのがふしぎに思えるとのツイートが流れてきたヴォネガットとアーヴィングが似ているくらいには似てると思うけどなぁナボコフもピンチョンもエンターテインメントの枠組をぶっ壊して再構築するナボコフは蝶を集めるようにジャンクな物語を蒐集しばらばらの部品にして組み立て直し読ませる手管として用いるピンチョンはもっと単純に物語を信じているナボコフのユーモアは体温が一定爆笑するのは読者だけで彼自身はニヤニヤしているだけちょっと意地悪な笑いピンチョンは情熱的で激情家といってもいいくらいでひくくらいのテンションで笑わせにくる読者といっしょになって大笑いすることもあるニヤニヤおじさんとおもしろおじさん似たもの同士だナボコフはこの数年ちょっとずつ読みはじめたばかりだピンチョンはV.は未読だし重力の虹は図書館の返却期限がきて慌てて斜め読みしただけわたしが思うナボコフやピンチョンは世間の認識とはきっとズレているピンチョンが精神分析をお笑いにするのはそれが家庭内の性暴力を隠蔽するために考案され発展したものすなわち弱者を搾取する権力そのものだからだナボコフもまさしく家庭内の性暴力を隠蔽する欺瞞について書いたけれど彼の場合は何かもうちょっと歴史に関係していそうフィクションで民衆を操る時代の権力を出自のせいで毛嫌いしていたのではないかという気がするけれども歴史についてまったくの無知なので見当ちがいかもしれないピンチョンのほうは女性を主人公にした探偵ものの終盤でロスコー・アーバックル物語というギャグをかましてきたのは主題と無関係ではないのではないかという気がしている同時多発テロを境にあの夫婦は変わるというか変わろうと努力しはじめるあのひどいできごとをきっかけに自分の暴力性との向き合い方を互いという他人と生きるために変えようとしはじめる変わろうと努力しつつある夫の寝顔を眺める視線が変わろうと努力しつつある主人公に重なって思えたナボコフのほうはたとえばロリータは表面上はペドフィリアを正当化して二次加害をする小説のように読めるけれど先日読み返したらどうもそうでもないむしろはっきりとその欺瞞ふつうの読者が平然と抱えている欺瞞を残酷にえぐりだしているかといってピンチョンのような反権力個の尊重といった熱い何かがあるわけではなく血の通った人間とはちがった地点から冷ややかに眺めているような借り物の物語をかき集めて通俗的に仕立て上げつつ何か意地悪く別のことをやっているような印象がナボコフにはつねにある表層はたしかにペド小説のようにも読めるのに気づかずに酔っている読者=二次加害者を容赦なく笑いものにしているそのあたりの定型発達者とは相容れない視点がいかにも発達障害の感性に思えるよくも悪くも人間味がないあるいはだからこそ人間臭いそんなたわごとをツイートしながらいい感じで酩酊していたらきょうが太宰が入水した日だと気づいたたぶんあれそんなリアルに死ぬつもりはなかったんじゃないかな死ぬ気がなかったかといえばあったんだけどわりとそこはどうでもよかったのではないか性暴力サバイバーで医者の処方した薬で依存症になってそれでああいう女性関係だったのは失敗したエンパワメント=復讐でありかつ自傷でもあったと思うそれはわりとどうでもいい日常で覚悟の自殺とかそういうんじゃない感じがする巻き添えを食った女たちはいい迷惑だちなみにわたしの誕生日はポール・マッカートニーとおなじで惜しいことに太宰とは一日ちがいだところがなんと人格OverDrive に寄稿していただいている うへ さんは太宰とぴったりおなじなんであるうらやましいぞわたしなら自慢する


(1975年6月18日 -)著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、総勢20名以上の協力を得てブラッシュアップした『悪魔とドライヴ』が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。最新作は『ぼっちの帝国』。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。
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