D.I.Y.出版日誌

連載第254回: ソーシャルな怪物に抗う

杜 昌彦書いた人: 杜 昌彦, タグ:
2020.
06.11Thu

ソーシャルな怪物に抗う

差別に加担し、略奪や暴動を扇動する連中の親玉みたいな大統領が、反ファシズムを標榜するをテロ認定するとか、何がなんだかわけがわからない世の中だ。twitterのわたしのタイムラインではあたかも差別に抗うかのような言説が渦巻いている。ところがなぜかJ.K.ローリングの差別発言の話題は流れてこない。ようやく流れてきたと思ったら自分の怒りをダニエル・ラドクリフが無視したと怒っている理不尽なツイートだった。あなたの怒りはあなたが主張していけばいいでしょう。すべての差別に同時に言及するよう他人に要求する思考がわからない。アフリカ系米国人が置かれている状況について論じていると白人の生命も大事だとふっかけてくる輩を連想させるが、どうもそういう問題ではなさそうだ。twitter上の反差別には明確なヒエラルキーがあるようなのだ。差別として認められる対象にまで差別がある。ひどいツイートが流れてきてショックを受けた。数名の女性の言動を理由に「だから女性は」と批難したらだれがどう見ても差別だが、トランスジェンダーを相手にそれをやればまかり通る。あまつさえそのひと自身にはどうにもならない身体性を貶めるような言説であってさえも。それどころかそれらは反差別、人権尊重の言葉であるかのように受け入れられる。正義を訴えるかのように装いながら公然と、安全な高みから悪辣な暴力をぶつけることのできる対象が、すなわち社会によって加害する権利が広く保障されている相手が、トランスジェンダーなのだろう。まるで『国民の創世』に描かれるアフリカ系米国人みたいな扱いじゃないか。なんでだれかがそのひとであることの価値をあかの他人に認めてもらわなきゃいけないんだよ。なんで他人様の生命を許すとか許さないとか決める権利が自分にあると思うんだよ。少なくともわたしのタイムラインでそうした価値観に共感こそあれ抗う声はない。twitterはみんなでおなじことをいう大喜利なのだという気がしてきた。この国ではだれにも考えなんてものはなく全体の「空気」に流されるだけなのだ。しょせん反差別も上っ面の流行にすぎない。本来なら支持すべきハッシュタグにもあべこべに全体主義の臭いしか感じられない。認められる怒りとそうでない怒りがある。みんなが話題にしていればいいが、そうでない差別への怒りを表明すれば疎外される。米国人の怒りの根底には個がある。香港で起きてることだってそうだ。それぞれが「わたし」である権利のために互いに支え合い声をあげる。日本人はもっともらしい口実を掲げながら全体の空気に流されて貶め合うばかりだ。そもそもだれにも「わたし」がない。空虚な闇があるだけだ。そこにだれもが引きずり込まれる。政治家やカルトや差別主義者がそれを利用する。わたしはHalseyのコメントに共感する。「若き反乱者が純粋な血筋を守り抜くという動機に基づく非道なモンスターに打ち勝つという、世代を定義するかのような素晴らしいシリーズを書き上げながら、今という状況のなかで『うーん、よし。トランスジェンダーの人たちを”無価値”認定しよう』っていうのはどうなの」フィクションではないのにこの訳もまた役割語めいていて、それはそれでモヤッとするけれど、しかし芸術とは何のためにあるのか、大いに示唆する言葉ではなかろうか。


(もり まさひこ、1975年6月18日 -)著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、藤井太洋氏、十市社氏らによる指導を受けた『悪魔とドライヴ』が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。最新作は『ぼっちの帝国』。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。
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