杜 昌彦

D.I.Y.出版日誌

連載第249回: 役割語について

杜 昌彦書いた人: 杜 昌彦, タグ:
2020.
06.02Tue

役割語について

役割語についてずっと考えていた。ビリー・アイリッシュの発言を訳した文章に対するわたしのツイートと同内容であるかに思えた著名人のツイートに三万のいいねがついている。評価経済の社会においてそのツイートには大きな価値があり、わたしのにはない。その差はどこにあるのだろうか。注意して読み返すと著名人のは、人権侵害に抗議する発言に役割語をあてた訳者の英語能力を疑う趣旨だった。それに対してわたしのツイートは、だれかが考えを述べる文章に、差別をわざわざ選びとってまで役割語をあてる必要があるのか(ない)、という趣旨だった。たとえば小説では、場合によってはあえてその悪を選ぶ利点がある。だれがしゃべっているかを示しやすいからだ。医師であり女性でもある人物を描写するにあたっては、医師としての役割語が優先される。論理的な口調と「……だわ」「……よ」といった口調とでは、どちらがフィクション的に「医師っぽさ」の記号を体現するかといえば、圧倒的に前者であるからだ。もちろんこれもまたステロタイプな偏見であり差別意識にすぎない。役割語は本質的に偏見から出発した類型にほかならず、人間性を悪意ある枠組に押し込めて「わかりやすく」消費することで、差別を強化し拡大再生産するものだ。だから可能なら使わぬに越したことはないのだが、しかし残念ながら2020年6月現在の日本語小説においては、その加虐性を自覚した上で、状況に応じて利用する利点が棄てきれない技法でありつづけている。また小説は往々にして、悪意を利するものも含めた言葉のごった煮から生まれてくるものであり、人道的に問題があるからといって必ずしも排除なり淘汰なりが望ましいとは決められない。これは他人を脅かしてよいということではない。罪の責任を自覚的に負わねばならぬ局面もある、という技法上の事実を述べている。しかし、それは小説の話だ。実在のだれかが意見を述べる文章、インタビューであるとか、ツイートであるとか、そういったものに役割語をあてるのは、発言の意図を歪めるものであり、ただ差別がそこにあるにすぎない。そのことについてわたしは「それいま必要あるの」と疑念を呈した。これは一瞬で消費されるべきソーシャルメディア上の言葉として、わかりにくい。ソーシャルメディアにおける正義はよくも悪くも「わかりやすさ」だ。著名人と無名人の差は、そうしたセンスの違いにある。かといって、そのセンスを努力して身につけようとまでは思わない。ただ違いに感じ入り、そのことについて書いた。


(もり まさひこ、1975年6月18日 -)著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、藤井太洋氏、十市社氏らによる指導を受けた『悪魔とドライヴ』が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。最新作は『ぼっちの帝国』。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。
ぼっち広告