D.I.Y.出版日誌

連載第242回: だれでもないわたしであること

杜 昌彦書いた人: 杜 昌彦, タグ:
2020.
05.11Mon

だれでもないわたしであること

ファシズムは絆主義を意味するという。同人誌もとりあつかう取次に問い合わせたら手売りの経験を積んでから出直すよう助言された。つまり即売会で顔を売るような社交のスキルが必要ということだ。仕事の減った某大御所演歌歌手は同人誌即売会で挨拶まわりをして人気を持ち直したという。人脈がかなめの似た世界だったので受け入れられたのだ。社会性に欠陥があり境界領域の知的障害すら疑われるわたしには努力しようにも限界がある。他人や社会とうまくやれないから書いて出版しているのにその能力が求められる。訓練のため四年ぶりにtwitterを再開した。定型発達者のようにソーシャルメディアを使いこなせれば出版もうまくやれるのではと考えたのだ。四人囃子「おまつり」のように感じることは減ったが上達したからではない。以前よりは政治的な発言が受け入れられやすくなったおかげだが、それも広く受け入れられた実績すなわち馴染み感のある「わかりやすい」フォーマットに厳密に従う場合においてのみだ。ハッシュタグやウェブ署名で規格化された発言に個の尊重はない。あるのは数にものをいわそうとする姿勢であってそれぞれの生は漂白脱臭され「みんなそういっている」の一構成要素に還元される。政治といってもわたしは法律や制度を理解できない。ただ日々暮らしていく上で社会への怒りがあるだけだ。つねにその怒りから書くがゆえに職業としての書き手にはなれなかった。虐待について書けば編集者たちは親は子どもを愛するものだと諭し、若い女性の活躍する爽やかな青春ものを書くようわたしに促した。出版業界はこの20年「だれもが同じでなければならない」「考えを表明してはならない」という風潮に与するような商品しか流通させなかった。そのためにおかしいことをおかしいと気づく読者は育たなかった。あるいはこの20年で世界の人権意識は大きく変わったのにむしろ退行するかのような読者ばかりを育てた。政治的発言をした若い女性に中高年男性が群がりマンスプレイニングで黙らせ謝罪させるこの国で、需要とは真逆の本が受け入れられるはずがない。社交のスキルとはそのような「世間」に最適化されることだ。そのような能力による経験の積み重ねが問われる。それなしに流通はできないと若き日には編集者らに、先日は取次の業者に告げられたわけだ。社交スキルと「世間」的需要。読まれない理由をそうした社会的能力に求めるのは、まったくの誤りとはいいきれぬように思う。実際わたしよりもはるかにずっと才能のない、下手くそな小説の多くがとてもよく売れている。むろんそんなことは自己欺瞞だ。この文章のすべてが自己欺瞞だ。彼らには高い社会的能力がある。愛される才覚が、この国の人権意識に最適化された感性が。わたしには何もない。何もなければ愛されない。至極当然の話である。要するにわたしには才能がないのだ。社会的能力もその一部でしかない。小説も世渡りも致命的に下手くそなのであって、だから職業にできなかったしだれにも相手にされない。生存のために目を背けて自らを偽りつづけている。なのに『ぼっちの帝国』を読み返すと、どうしてもそのようには思われないのだ。数えきれぬほどの瑕疵にもかかわらず、どうしたわけかおもしろく感じられるのである。他人にはわかりようもない自分ひとりがいいと思うものを書いて出版したということなのだろうか。そうかもしれない。わたしには何もわからない。所詮、他人の気持など理解の埒外だ。


(もり まさひこ、1975年6月18日 -)著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、藤井太洋氏、十市社氏らによる指導を受けた『悪魔とドライヴ』が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。最新作は『ぼっちの帝国』。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。
ぼっち広告