杜 昌彦

D.I.Y.出版日誌

連載第235回: D.I.Y.で出版する理由

杜 昌彦書いた人: 杜 昌彦, タグ:
2020.
04.05Sun

D.I.Y.で出版する理由

今夜はなぜわざわざD.I.Y.で出版するのかという話をする。若い頃にプロの小説家になろうとしたことがある。新人賞を獲るには傾向に合っていなければいけない。過去の受賞作と違っていたら話にならない。売れた実績のある既存の商品と似たところがなければ箸にも棒にもかからない。だから応募できる賞がない。わたしの視点はわたしだけのものだ。漫画家が首相の似顔絵を描いただけで大炎上して叩かれるような国には馴染めない。そもそも他人のようにできないから書いている。それでも所詮は新人賞なので若ければ「伸びしろ」を見てもらえる。どんな無能でも応募さえすれば何度か最終選考に残る。わたしの場合ただ単に当時はへたくそだったから、というのもあるけれど編集者の名刺が溜まるばかりだった。「流行っているから××みたいなのが書けたら読んでやってもいいよ」といわれ、資質とは真逆だなと思いつつ必死に媚びる。脱稿する頃には流行が終わっている。要するにプロとして仕事を請けてやっていく資質がなかった。「世間」が単純に決めつけることに「いやいや、そんなに簡単には割り切れないだろう」と違和感をおぼえる人間には向いていない。他人と同じ「普通」でなければ、単純に決めつける「わかりやすさ」に最適化されていなければ金を稼げない。epubやPODで出版できるようになり、つまらぬしがらみから脱せたかと思いきや、インターネットを利用した商売であるからには結局は同じことだった。インターネットは「世間」を煮詰めたような場所である。そこでは「馴染み感」のあるものしか読まれない。何しろ大人気の漫画家でさえ少しでも社会批判と受けとられかねないものを描けば叩かれる国である。ひとと違うもの、「世間」なるものへの違和感の表明、そうしたものは絶対に許されない。障害者施設の大量殺人犯のような論理で「淘汰」されるのみである。厭われるのは個性や独自の視点ばかりではない。プロフェッショナルな唯一無二のものほど「馴染み感」から遠ざかるがゆえに憎まれる。読書は訓練によって可能となる。ありとあらゆる多様なものを、ときに消化不良を起こしながらも果敢に味わい尽くす貪欲さがなければ、読む能力は育たない。ところが出版不況と呼ばれて久しい業界は、読者を育てる努力を怠った。冒険が許されぬがために売れた実績のある企画しか通らなくなった。惨めに足掻いた若き日から二十年のあいだに、アニメ風イラスト表紙の、小説を読めない幼稚な客に迎合した本ばかりが増殖した。そうでないものは「淘汰」された。来港した黒船への対策が遅れたのも祟った。ようやく対応できた頃には客層は濁りに濁って取り返しがつかなくなった(モールのアルゴリズムとはそのようなものである)。そんな売場には馴染めない。ほかのどの店とも区別のつかない書店のほかのどの本とも区別のつかない本と一緒に並びたくない。あるいは単純に才能がないというだけの話かもしれないし、客観的にはそれが事実なのだろうし、少なくとも世渡りの才がないのは否定しようもない。わたしは徹底的に無価値である。一銭の得にもならぬどころか貶められるだけなのに、どうして書いて出版するのだろうと考える。詰まるところわたしはそのような人間なのだ。他人にどう扱われようが書いて出版することからは逃れられない。自分自身であることからは逃れられない。だからわたしはD.I.Y.でサミズダートしつづける。


(もり まさひこ、1975年6月18日 -)著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、藤井太洋氏、十市社氏らによる指導を受けた『悪魔とドライヴ』が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。最新作は『ぼっちの帝国』。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。
ぼっち広告