戸田 鳥

オードトワレ

連載第10回: 入梅

戸田 鳥書いた人: 戸田 鳥, 投稿日時: 2019.05.07

 冬花が休みの日には、飯塚が立ち寄ることが増えた。互いの休みが合わないので、飯塚の通勤途中にある冬花の部屋で会うのは合理的だった。
 梅雨入りのニュースを待ちかねたかのように激しい雨が降り出した。スラックスの裾を濡らした飯塚の鞄を拭いてやりながら、いつもの香りがしないことに気がついた。いま切らしてるんだ。飯塚は答えた。
「それに営業先によっては良く思われないしね。買い直すかどうか迷ってるんだ」
「わたし好きです。あの匂い」
 まだ言葉遣いを切り替えられない冬花だった。飯塚は笑った。
「じゃあまた買おうかな。もともとは貰った物なんだけどね……あれ?」
 鴨居にハンガーをかけようとした飯塚の動きが止まった。視線の先、すぐ横の棚に香水の瓶があった。咲子の話を持ち出すために目につきやすい場所に置いたのは自分なのに、冬花は躊躇した。咲子の秘めた想いを独断で明かしたら彼女は怒るだろうか。叔母の怒った顔を冬花は見たことがなかった。
「どうして冬花さんが持ってるの?」
 ここで誤魔化せば嘘をつくことになる。冬花は決めた。伝えることがきっと使命なのだ。彼に導いてくれたのは彼女なのだから。
 冬花は説明した。香水は遺品であること。そして、叔母の言い残したであろう思い。
「咲ちゃんは飯塚さんのこと好きだったのかもしれません」
「ああ……うん」
 飯塚の態度は意外だった。知っていたのだ。
「香水をくれたのは咲さんなんだ。イメージに合うからって。誕生祝いに」
 そのときに打ち明けられた、と飯塚は言った。冬花は言葉に詰まった。
「どうして?」
「どうしてって」
「どうしてその香水をずっと使ってるんです? 咲ちゃんの気持ち知ってて」
「香りが気に入ったからだよ。なんで怒るの」
「だって、気を持たせるようなこと……咲ちゃんに失礼です」
「どこが」
 飯塚は腑に落ちない様子だった。
「親しい人から貰ったものだから大事に使ったんだよ。最後のお別れにもつけていった。それがいけない?」
 飯塚は間違ってはいない。けれども冬花はしおれた。
「でも咲ちゃんとはお付き合いしなかった」
「そういう意味じゃないのはわかるでしょ」
 飯塚は呆れた口調に変わる。
「だいたいそのとき僕は婚約してたし、離婚したあとには咲さんに相手がいた」
 冬花の顔を見て、飯塚はしまったという顔になった。
「誰」
 飯塚は渋ったが、終わったことだからと前置きして話した。咲子が妻子のある上司と噂になっていたことを。上司の家族にばれて揉めたらしいが、社内で咲子を悪く言う者はいなかったこと。その上司も退社してもういないこと。
 冬花の脳裏に叔母の姿が浮かんでは消えた。自分が混乱していることを自覚したのは、疑問がふと口をついて出たときだった。
「その相手のひとも、香水をつけてましたか」
 冬花の質問に飯塚は眉をあげた。
「いや。どうして」
 冬花は首を振った。飯塚の視線を感じていたが、目は合わせなかった。沈黙が続き、やがて飯塚が立ち上がった。
「今日は帰ったほうがいいね」
 ため息混じりの言葉が冬花をちくりと刺した。
 足音がやがて雨音に消えると、冬花は香水瓶を手に取った。
 ごとん、とゴミ箱が鳴った。

 嫌な夢で何度か目が覚めた。
 寝起きは最低だった。顔を洗っても意識はどろんとしていた。食欲がなく、コーヒーとヨーグルトだけの朝食をとりながら、胸に不安がせり上がる。
 雨はあがっていたが、今にもまた降り出しそうだ。身支度をしながら、ゴミ箱の香水瓶には見えていないふりをした。どのみち分別が必要なゴミだから引っぱり出さねばならないが、今は触りたくなかった。
 どんよりとした空の下出勤すると、店の空気が異様だった。不審に思いながら売場に出ると、赤木が駆け寄ってきて大変よと耳打ちした。
「昨日、越田さまが予約キャンセルしたの。展示会の分もそれ以前のも全部。これまで払った分は返品しろって大騒ぎになって、早目に店を閉めたくらいよ」
 冬花は耳を疑った。展示会での越田夫人の散財ぶりが思い出された。もしや越田氏の会社が傾いてでもいるのだろうか。
 理由は驚くべきものだった。
 越田夫人が千葉と浮気をしていたことが発覚して、怒り狂った越田氏がこの店のせいだと息巻いたというのだ。


学生時代より児童文学を学ぶ。長い休みをはさみつつ創作を続け、2014年より、Webサイト「note」にて作品を公開。代表作に『きゅーのつれづれ』『手品師の弟子』『にんぎょばなし』など。2019年現在『鳥の国のはなし』を連載中。愛読書はダイアン・セッターフィールド『13番目の物語』、谷崎潤一郎『細雪』。好きな作家は小林信彦、庄野英二、イタロ・カルヴィーノ。
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